【コラム】デットマール・クラマーが日本サッカーに残したものとは――

2015年09月21日 加部 究

クラマーの来日は、現代ならドイツ代表のレーブ監督が日本に送り込まれたようなもの。

日本サッカーの近代化に大きな役割を果たし、「日本サッカーの父」とも称されるクラマー氏が永遠の眠りについた。(C) Getty Images

 9月17日に逝去した故デットマール・クラマー氏は、日本の1968年メキシコ五輪銅メダル獲得の礎を築いただけでなく、その後長きに渡って日本サッカーの歩みに多大な影響をもたらした。クラマー氏とその教え子たちの成長を描いた『大和魂のモダンサッカー』(双葉社/2008年刊行)の著者でスポーツライターの加部究氏が、その偉大な功績について解説する。
 
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 日本代表選手たちが改めてデットマール・クラマーの偉大さを思い知ったのは、1966年イングランド・ワールドカップ決勝で、観客席から西ドイツ代表のベンチに座る姿を目にした時だった。
 
 まだ日本では、ワールドカップという舞台を知るファンも稀で、映像が紹介されたこともなかった。代表チームはアマチュア限定の五輪を目標に強化を進め、そのために初めてワールドカップを見学した。一方で見果てぬ夢の世界で西ドイツの希望の星としてプレーをしたフランツ・ベッケンバウアーは、同国ユース代表時代からクラマーから指導を受けて来た選手だった。
 
 クラマーと日本サッカーの遭遇は、時代的背景に後押しされた奇跡だ。1960年、どん底状態から地元開催の五輪へ打開策を思いあぐねた日本協会の野津謙会長は、西ドイツ連盟(DFB)に指導者派遣を請う手紙を認めた。それに対しドイツ側は、6年後にはヘルムート・シェーン監督の補佐役として代表ベンチに座る若い逸材を紹介してきた。
 
 今なら現代表監督のヨアヒム・レーブを、コーチ時代に送り込んだようなものである。第二次世界大戦で同盟を組んだドイツとの関係が、いかに密だったかが推し量れる。実際にクラマーは、帰国後バイエルンを指揮して欧州制覇を成し遂げるのだが、同時にバロンドールを二度受賞するカールハインツ・ルンメニゲらを育てて世に出している。
 
 確固たる哲学を持ち育成のヴィジョンにも長けた最先端の指導者が、日本の文化に興味を抱き、その可能性に着眼してくれた。それはおそらく日本協会が描いた理想のシナリオを軽く凌駕する行幸だった。
 
 ただし世界のトップに君臨する西ドイツからやって来たのは、アジアの弱小国である。両国間には数えきれないほどのギャップがあった。指導現場には頑迷なプライドが蔓延り、代表強化の合間を縫ってクリニックのために全国を行脚したクラマーに食ってかかる堅物が少なくなかった。弱音を吐かないクラマーが、同行する岡野俊一郎だけには洩らした。
「オレたちは孤独だなあ…」
 
 それでもクラマーは、日本の習慣に倣い、出来る限り選手たちの心に寄り添って粘り強く指導を続けた。来日すると早速予約してあったホテルをキャンセルし、選手と寝食をともにした。畳の上で味噌汁をすすり、沢庵をかじった。

次ページプロとしての振舞いを厳しく要求する反面、心憎い気配りも。

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