少なくとも4000人のサポーターが墓地の周辺に集結
5月1日にオーストリアの自宅で永眠した元日本代表監督のオシム氏。(C)Getty Images
5月14日、ボスニア・ヘルツェゴビナで最も愛されたサッカー指導者、イビチャ・オシムの葬儀が行なわれた。彼の亡骸はサラエボ郊外のベア墓地に埋葬された。ここには政治家からミュージシャンにいたるまで、多くのボスニア・ヘルツェゴビナの名士たちが眠っている。
会葬者は家族やサッカー関係者400人に限られたが、オシムを信奉する少なくとも4000人のサポーターが墓地の周辺に集まり、埋葬の瞬間、オシムが好きだった歌「グラバビカ」を合唱した。グラバビカは、オシムが生まれ育ったサラエボの地区であり、彼がプレーし率いたチーム、ジェリェズニチャルの本拠地がある。ユーゴスラビア紛争時には激しい戦闘が繰り広げられた場所でもあり、その歌はこんな歌詞で始まる。
「グラバビカ、傷つき怒り、大いなる悲しみが我を打ちのめす」
埋葬に先立ち、ジェリェズニチャルとボスニア・ヘルツェゴビナ・サッカー協会(FSBiH)の主催で、オシムの追悼式典がサラエボの国立劇場で行われた。式にはサッカー界、政界などから約500人が招かれ、劇場の外には100人以上のオシムを慕うファンが押しかけていた。またその様子はボスニアの『BHTV』で全国中継されたほか、旧ユーゴ圏をカバーする『TV N1』でも放映され、少なくとも100万人の人々が中継を見たと言われている。
【画像】サラエボで行なわれたオシム氏の葬儀。棺が墓地に運ばれる時の様子
会葬者は家族やサッカー関係者400人に限られたが、オシムを信奉する少なくとも4000人のサポーターが墓地の周辺に集まり、埋葬の瞬間、オシムが好きだった歌「グラバビカ」を合唱した。グラバビカは、オシムが生まれ育ったサラエボの地区であり、彼がプレーし率いたチーム、ジェリェズニチャルの本拠地がある。ユーゴスラビア紛争時には激しい戦闘が繰り広げられた場所でもあり、その歌はこんな歌詞で始まる。
「グラバビカ、傷つき怒り、大いなる悲しみが我を打ちのめす」
埋葬に先立ち、ジェリェズニチャルとボスニア・ヘルツェゴビナ・サッカー協会(FSBiH)の主催で、オシムの追悼式典がサラエボの国立劇場で行われた。式にはサッカー界、政界などから約500人が招かれ、劇場の外には100人以上のオシムを慕うファンが押しかけていた。またその様子はボスニアの『BHTV』で全国中継されたほか、旧ユーゴ圏をカバーする『TV N1』でも放映され、少なくとも100万人の人々が中継を見たと言われている。
【画像】サラエボで行なわれたオシム氏の葬儀。棺が墓地に運ばれる時の様子
70分間の式典はまず国歌から始まり、その後にオシムの生涯がなぞられた。愛すべきその人となりを想い起こし、多くの人が涙を流したが、それと同時に彼の功績に感謝もささげる、悲しみの中にも厳かさのある式典でもあった。60年間彼に連れ添ったアシマ夫人も、彼の3人の子供や孫たちも彼のことを誇りに感じていたことだろう。
その後には式に列席した人々の弔辞が続く。
オシムの愛弟子であり現ボスニア・ヘルツェゴビナ代表監督メフメド・バジダレビッチは「オシムはまれなる存在だった。彼は我々のキャリアに、人生に、そしてなによりサッカー界に大きな足跡を残した」と述べた。
FSBiHの幹部の一人、ケリコ・コスミッチはこう言った。
「イビチャはこの国が最も大変な時に大きな貢献をしてくれた。彼の心にはいつも祖国があり、彼は決して裏切らなかった」
そして最後にこう結んだ。
「シュワーボ(オシムのニックネームでドイツ人の意味、彼は金髪だったのでそう呼ばれていた)、この複雑なボスニアという国を見守ってください」
その後には式に列席した人々の弔辞が続く。
オシムの愛弟子であり現ボスニア・ヘルツェゴビナ代表監督メフメド・バジダレビッチは「オシムはまれなる存在だった。彼は我々のキャリアに、人生に、そしてなによりサッカー界に大きな足跡を残した」と述べた。
FSBiHの幹部の一人、ケリコ・コスミッチはこう言った。
「イビチャはこの国が最も大変な時に大きな貢献をしてくれた。彼の心にはいつも祖国があり、彼は決して裏切らなかった」
そして最後にこう結んだ。
「シュワーボ(オシムのニックネームでドイツ人の意味、彼は金髪だったのでそう呼ばれていた)、この複雑なボスニアという国を見守ってください」