名古屋・セレッソ時代に出会った3人の恩人――ピクシー、フォルラン、風間八宏から学んだもの【玉田圭司ストーリー・中編】

2021年12月26日 元川悦子

「個性がまとまった時のチームは強い。それを痛感させられたのが南アと2010年の名古屋でした」

2010年には名古屋の初優勝に貢献した玉田。優勝決定の湘南戦では、決勝点を挙げた。写真:サッカーダイジェスト

 2006年ドイツワールドカップ(W杯)のブラジル戦で世界を震撼させるゴールを奪った玉田圭司。彼はその年に柏レイソルから名古屋グランパスへ移籍した。

 名古屋時代は楢崎正剛(名古屋CFS)、藤田俊哉(JFA強化部員)、田中隼磨(松本山雅)、本田圭佑ら個性豊かな面々と共演。2008年にドラガン・ストイコビッチ監督(現セルビア代表)が就任すると、絶対的武器であるドリブル突破からのシュートを強く求められ、本来のキレを取り戻していく。

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 同年には日本代表にも復帰。岡田武史監督(FC今治会長)からも「攻撃陣を引っ張っていってほしい」と重責を託された。本人も初めて「自分は代表の主力なんだ」という自覚を持ってプレーするようになった。

 ところが、2009年に入ると肋骨骨折やグロインペイン症候群に悩まされるようになる。時を同じくして、岡崎慎司(カルタヘナ)が急成長。この1年だけで15得点という驚異的なゴールラッシュを見せたこともあり、玉田はサブに追いやられる格好になってしまう。2010年南アフリカW杯出場を決めた6月のウズベキスタン戦も欠場。海外経験のある松井大輔(YSCC横浜)や大久保嘉人らも台頭し、自身の集大成と位置付けていた南アではベンチに縛り付けられた。

 ピッチに立てたのは、オランダ戦とパラグアイ戦の途中から。後者では最後の切り札として大久保と代わったが、惜しいシュートチャンスを決められずじまい。救世主になれず、「フルで活躍したかった」と本人も悔やんだ。この時点で30歳。代表キャリアは不完全燃焼感を抱えたまま一区切りとなった。

 しかしながら、フットボーラーとしてはここからが本当のスタートだったのかもしれない。同年のJ1では13ゴールを挙げ、名古屋のリーグ優勝に貢献。タイトル獲得を決めた11月の湘南ベルマーレ戦でも決勝弾を叩き出した。田中マルクス闘莉王や三都主アレサンドロらも加わり、このシーズンの名古屋は「際立った個性の集団」だった。

「ピクシーは『勝利のメンタリティ』とよく言っていたけど、ナラさんや闘莉王も『俺たちは勝てる』と心底、信じてました。個性がまとまった時のチームはやっぱり強い。それを痛感させられたのが南アと2010年の名古屋でした」と玉田はしみじみと言う。この成功体験がその後のベースになったのは間違いないだろう。
 

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