「当時の協会はお金もなく…」釜本邦茂が語る日本の五輪サッカー。銅メダル、低迷期後の急成長、そして今大会の注目は?

2021年07月21日 サッカーダイジェストWeb編集部

メキシコ大会は現役を通じて最高のコンディションで臨めた

インタビューに応じた釜本氏。メキシコシティ大会で銅メダルを獲得した日本代表メンバーのひとりだ。写真:釜本企画

68年のメキシコ五輪で大会得点王に輝くなど日本代表の国際Aマッチ最多得点記録(75年)を保持する釜本邦茂氏。東京五輪開幕に向け、このレジェンドに過去の五輪での記憶を呼び、起こしてもらった。そして、今大会の注目選手に挙げたのは――。

――◆――◆――

――いよいよ東京五輪が開幕します。釜本さんは64年の東京大会に選手として初めて参加されていますね。当時、どのような想いでピッチに立ったのでしょうか。

「正直、当時はまだ20歳で、夢(五輪出場)を実現できたという想いが強すぎて、あまり試合のことを覚えていないんです(笑)。サッカーなんて注目度は低いし、周りも東洋の魔女(女子バレーボール日本代表チームの呼び名)や陸上の(ボブ・)ヘイズ(男子100㍍)のほうに目が向いていましたね。確かに優勝候補のアルゼンチンに初戦で勝ちましたが(3-2)、個人としては得点を奪えず、納得のいく大会ではありませんでした。

 ただ、東京大会が終わった時に、『自分は一体何をしていたんだ』という気持ちが芽生えて、とにかく一級品の実力をつけて次の五輪を迎えるんだと考えるようになりました」

――そして4年後の68年のメキシコシティ大会で銅メダルを獲得。快進撃の要因はなんだったのでしょう?

「私個人の話をすると、東京大会のあとにヤンマー(現C大阪)でネルソン吉村という良き相棒を得て力をつけ、さらにドイツ留学でひと回り成長させてもらいました。そうして迎えたメキシコ大会は、全く怪我もなく、現役を通じて最高のコンディションで臨むことができました。それが本当に大きかったですね。

 初戦のナイジェリア戦はやはり緊張したんですが、前半に1点を取って硬さが取れて身体が軽くなった。そこから私がさらに2点を取って勝利し(3-1)、次の試合からはやることなすことが全部うまくいくような感覚でした。準々決勝のフランス戦も勝って(3-1)、ひょっとしたらメダルもという雰囲気が出てきましたが、当時最強と言われたハンガリーには0-5で敗戦。3位決定戦に回ると、当時のアドバイザーだった(デットマール・)クラマーさんに『お前ら、ここでなにも持たずに帰るのか?』と発破をかけられ、みんな一気にやる気になった。最後は気持ちの強さでメキシコに勝利(2-0)してメダルを引き寄せましたね」
 
――しかし日本サッカーは、このメキシコシティ大会を最後に、五輪の舞台から長らく姿を消してしまいます。

「昔のスポーツ選手は今と違って会社勤めをしながらプレーしていたので、だいたい重要な仕事を任される28、29歳あたりで一線から退くことが多かった。メキシコ大会のあとに多くの主力が現役を退いたし、私も25歳の時にウイルス性肝炎を患って2年間はまともにプレーできませんでした。代表に戻ってきた時にはチームの顔ぶれは大きく変わっていましたね。メキシコ大会は東京からほとんどメンバーが変わらなかったので、完成度も高かったのですが、やはりメキシコ大会以降は連係不足になり、レベルが落ちたのは否めませんでした。

 多くのスポンサーが付いている今では考えられませんが、当時の協会はお金もなく、遠征や合宿で代表チームを強化することもままなりませんでした。サッカーをするための環境も、やはり強豪国のそれとは雲泥の差があったんですね」
 

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