志願してPKキッカーを務めるも、同僚からの抱擁はなし…バルサの逸材プッチの“孤独な挑戦”【現地発】

2021年01月25日 エル・パイス紙

クーマンの判断が合理的だったとは思えない

クーマン監督の構想外となっていたプッチ。ここにきて少しずつ出番を増やしているが…。 (C) Getty Images

 スーペル・コパ準決勝のバルセロナ対レアル・ソシエダは、陣地を取り合う攻守の入れ替わりの激しい好勝負となった。

 両チームともに1点ずつにとどまったが、それはアクティブなゴールキーピングを見せたマルク=アンドレ・テア・シュテーゲン、アレックス・レミロの両GKのインスピレーションによるところが大きい。さながら陣取り合戦のような様相を呈した一戦は、PK戦に持ち込まれた

 バルサの5人目のキッカーを務めたのがリキ・プッチだ。ロナルド・クーマン監督に「僕が蹴る」と志願したのだ。

 開幕以来、冷遇し続けている若手にこの大役を任せた指揮官の判断が合理的だったとは思えない。現にセンターサークルからペナルティ―マークへと歩を進める間、リキ・プッチは強烈な孤独を感じていたはずだ。いうなれば危険なミッションに挑む特殊部隊の一兵卒のような心境だったろう。

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 もっとも、同時に腹をくくってもいたはずだ。その覚悟のほどは非の打ちどころのないキックへと結び付き、プッチはギロチンによる処刑を免れた。しかし勝利が決まったその瞬間、興奮するチームメイトたちの総出の抱擁を受けたのはこの夜の王様、テア・シュテーゲンだった。

 ではプッチはPK成功によって何を得たのだろうか? それは果敢に挑み、結果を残した人間のみが味わえる達成感だろう。リキ・プッチにとって、決死のチャレンジは忘れられない冒険となった。

文●ホルヘ・バルダーノ
翻訳:下村正幸

【著者プロフィール】
ホルヘ・バルダーノ/1955年10月4日、アルゼンチンのロス・パレハス生まれ。現役時代はストライカーとして活躍し、73年にニューウェルズでプロデビューを飾ると、75年にアラベスへ移籍。79~84年までプレーしたサラゴサでの活躍が認められ、84年にはレアル・マドリーへ入団。87年に現役を引退するまでプレーし、ラ・リーガ制覇とUEFAカップ優勝を2度ずつ成し遂げた。75年にデビューを飾ったアルゼンチン代表では、2度のW杯(82年と86年)に出場し、86年のメキシコ大会では優勝に貢献。現役引退後は、テネリフェ、マドリー、バレンシアの監督を歴任。その後はマドリーのSDや副会長を務めた。現在は、『エル・パイス』紙でコラムを執筆しているほか、解説者としても人気を博している。

※『サッカーダイジェストWEB』では日本独占契約に基づいて『エル・パイス』紙に掲載されたバルダーノ氏のコラムを翻訳配信しています。
 

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