連載|熊崎敬【蹴球日本を考える】「ストライカーが決める」サッカーに立ち返ろう

2015年04月09日 熊崎敬

「チャンスは作ったのに勝てなかった」という消化不良感。

チャンスは作ったものの、ホームで北京国安に勝ち切れなかった浦和。必要なのは、責任を背負って「決める人」の存在ではないか。 (C) SOCCER DIGEST

 鹿島とG大阪が初勝利を挙げ、柏と浦和がドロー。ACLの日本勢はグループステージ4節で、ようやく意地を見せた。
 
 もっとも、厳しい状況には変わりがない。特にホームで北京国安に引き分けた浦和は、残り2試合の連勝がベスト16進出の最低条件。かなりの運に恵まれなければ敗退の運命が待っている。
 
 今節の浦和は、持っている力は出し切ったと思う。
「自分は監督だから客観視できていないかもしれないが、後半は理想の戦いができていた。攻撃の選手か、守備の選手かわからないくらい動きにバリエーションがあった。これは世界でも稀なことだ」
 ペトロヴィッチ監督の記者会見の言葉はさすがに褒めすぎだと思うが、それでも彼らが精一杯戦ったことは間違いない。
 
 だが、勝てなかったという現実は動かない。
 なぜ勝てなかったのか。それはゴールを決められなかったからだ。攻守に奮闘した槙野智章がCKから同点弾を決めたが、それだけでは足りなかった。
 
 先週末の松本戦もそうだが、浦和にはゴールを決める力が足りない。それはストライカーであり、この試合では李忠成ということになる。ゴールへの気迫は伝わってきたが、彼には決める力量がなかった。
 
 後ろから来たボールを収め、前を向き、敵を外してシュートを撃つ――。具体的にいえば、彼にはそれができなかった。第1段階の収めるところが上手くできず、ラストプレーでも槙野からいいクロスが送られたが、ヘッドで枠を捉えることができなかった。
 
 こういうゲームでは、どうしてもストライカーが責められることになる。それは不公平なことではない。決めれば勝利の立役者として、だれよりも称賛されるのがストライカー。外せば叩かれ、決めれば褒められるのだから公平だろう。
 
 浦和のゲームには多くの場合、「チャンスは作ったのに勝てなかった」という消化不良感がつきまとう。
 だが彼らがチャンスを数多く作る攻撃的なゲームをするのは、チャンスを確実に仕留められるストライカーがいない、という前提に基づいているからだ。ストライカーがいないから多くのチャンスを作ろうとする。
 
 かつてのエメルソン、ワシントンなら、3度チャンスを作れば絶好調なら3点、好調なら2点、不調でも1点は決めていた。いまはエメもワシもいないから、倍以上の決定機を作ろうとする。そして実際に決定機は増えたが、肝心のゴールは増えていない。なぜ、そうなってしまうのか。
 
 これはいまの浦和が「ストライカーが決める」サッカーではなく、「決めた人がストライカー」という考えに基づいて試合をしているからだ。つまり、みんながチャンスメーカーであり、みんながストライカー。ついでにいえば、みんながディフェンダー――。
 
 私は、この「みんなで状況を解決する」思考が浦和を勝利から遠ざけていると思う。
 
 なぜなら、ボールを運ぶことは大勢でできるが、最後にボールをゴールに入れるのはひとりにしかできないからだ。
 ゴールを決めるというのは、ある意味で選ばれた者にしか与えられない特権。それを難しい任務だからといって、みんなで解決するのは責任の分散につながり、結果的にだれも責任を取らなくなってしまう。
 
 これは浦和に限ったことではない。日本では多くのチームが「決めた人がストライカー」という考えに基づいて試合をする。日本代表も例外ではない。ザッケローニ時代が特にそうだった。
 
 日本代表やACLでのJリーグ勢が結果を残していないいま、私たちはもう一度、「ストライカーが決めるのがサッカーだ」という基本に立ち返るべきではないだろうか。
 
 今季のACLでいちばん結果を出しているのは、柏レイソルだ。
 このチームも監督が代わってチャンスを増やす方向に舵を切ったが、それでもレアンドロ、クリスティアーノという外国人ストライカーを前線に配している。アジアでは傑出したタレントとは言えないが、自分が決めればチームが勝つ、決めなければ負けるというストライカーのマインドを持つ人間が前線にいるのは大きいはずだ。
 
取材・文:熊崎敬
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