それは最も美しいマラドーナの定義だった――旧知のベテラン記者が綴る“ディエゴとの日々”【現地発】

2020年12月11日 ダニエル・アルクッチ

2002年の日韓ワールドカップでは一晩中ゴルフを…

アルゼンチンの英雄となったマラドーナ。時に「神」と称され、時に「悪魔」と揶揄された男は、多くの人々から愛される存在だった。 (C) Alberto LINGRIA

 ディエゴ・マラドーナを理解し、彼を説明しようとすることは、私が彼に最初のインタビューを行なった1985年12月25日から、彼について書く最後の日……というわけではないが、2020年11月25日までの34年と11か月の間に、私の人生の一部となった。そう、長い年月を経て、「仕事」ではなく「人生の一部」に変わったのだ。

 全てはその始まり方にあった、と思いたい。

 マラドーナは取材を拒否し続けた挙句、クリスマスイブを家族と一緒に過ごし、「その翌日ならインタビューに応じてもいい」といった。その意思を尊重し、クリスマス当日に取材を行なった。当時は警備員もいなければ、今のように隠しカメラやドローンもなかった。彼は「君の人生で最も重要となるインタビューをさせてあげよう」と約束し、その通りに実現した。インタビューへの読者の評判は決して良くなかったが、私にとっては"その後"に繋がった。

 あのクリスマスの日にビジャ・デボート地区のマンションで行なったインタビューを皮切りに、90年にはナポリでスクデット獲得を一緒に祝った。92年にはセビージャで、93年にはロサリオ(※ニューウェルス入団時)で、さらに選手として活躍した86年、90年、94年のワールドカップで、監督として迎えた2010年の南アフリカ・ワールドカップで、常に間近でディエゴとともに楽しみ、そして苦しんだ。

 ヌニェス地区のコレア通りとリベルタドール大通りの角にあるマンションでテーブルを囲んで深く話し込み、デボート地区のアバナ通りとセグロラ通りの家では何度も話をした。さらにキューバのハバナでは、彼が生まれ変わる(※1)のを、この目で見ただけでなく、一緒に「マラドーナ自伝」をまとめた。

 彼のために一緒に中国と韓国へも行った。また、2002年のワールドカップ決勝の間近に来日した際には、入国許可を得るのに苦労し、ほとんど寝る間も惜しんで滞在を満喫していた。それまで大会を取材していた私も、ディエゴが日本に来てからは彼に同行し、東京の屋内グリーン(ゴルフ練習場)で一晩中ゴルフをやったことは忘れられない思い出だ。
 

 インタビューでは、当然だが、私が質問して彼が答えるという図式が長年続いた。だが、2014年のある日、ドバイにいたディエゴから初めて質問を受けた。

「一体どうしてそんなに走るんだい?」

 私がマラソンを続けていたからだ。その理由を知りたがった彼は、私をドバイに招き、当地で開催されるマラソンに出場して「感想を聞かせてくれ」と言った。

 こうして私はディエゴが手書きで「ダニ、君はもう勝ったんだよ!」と記してくれたアルゼンチンカラーのシャツを着て、私たちがやっと"友達"と呼べる間柄になれたという確信も抱きながら、ドバイ・マラソンの42キロを走り抜いた。

(※1 心臓疾患の治療や薬物中毒のためのリハビリのために滞在した)

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