「いつか必ず日本に戻る」セレッソ大阪退団後に驚きのキャリアを歩む――あの助っ人たちの“いま”【ディエゴ・フォルラン】

2020年10月06日 チヅル・デ・ガルシア

「あんな体験初めてだった」と綴った日本挑戦

鳴り物入りでセレッソ大阪に入団したフォルラン。その挑戦は世界で注目を集めた。 (C) Getty Images

「こんばんは。日本の皆さま、はじめまして。ディエゴ・フォルランです。セレッソ大阪で頑張りますので、どうぞよろしくお願いします」

 ウルグアイが生んだ屈指のスターは、セレッソ大阪への入団会見でいきなり日本語による自己紹介を始め、見ていた者を驚かせた。

 感謝と日本の印象、新天地での抱負に至るまで、日本語を話せない外国人にとっては難しく長いスピーチを完璧にこなしてから「オオキニ」で締め括り、照れ臭そうな笑顔を見せた。あれだけの文章を暗記して人前で語ることは容易ではない。あの時、フォルランが非常に謙虚で、人一倍努力家であることに、誰もが気づいただろう。

 その人柄は、それから1年半後の退団セレモニーでもにじみ出ていた。

 本拠地キンチョウスタジアムのピッチをゆっくりと歩きながら、サポーターの一人ひとりと別れを惜しむかのように手を振り続け、スタンドから送られるコールとチャントをフォルランはじっくり聴き入っていた。

 そんな彼のセレッソサポーターへの想いは強く、のちにUAE紙『The National』に連載されたコラムの中でも、「空港に見送りに来てくれた人たちも歌ってくれた。あんな体験は初めてだった」と綴っている。
 
 セレッソ大阪を退団した1か月後の2015年7月、フォルランは父パブロの古巣であり、幼少期から大ファンだった名門ペニャロールに入団した。母国の1部リーグでプレーすることをずっと夢に抱いていたからだ。

 フォルランがウルグアイで暮らすのは18年ぶりのことで、国民的英雄の帰還に国中が注目した。もちろんそこには、強度の激しいウルグアイのトップリーグで、36歳のベテランがフィジカル的にどこまで耐えられるのかという懐疑的な見方や、「個人の欲を満たすためだけに来た高給取りは必要ない」という意地の悪い声がなかったわけではない。

 だが、元ウルグアイ代表FWは、大幅な減俸も当然のように受け入れ、ペニャロールでのデビュー戦となったテストマッチで早速2ゴールをマークし、周囲の"疑念"を一掃。クラブが期待していたとおりピッチ内外でチームを支えるリーダーとなり、2015年シーズンの前期優勝の立役者となったのである。

 さらに2016年6月にペニャロールはシーズン優勝決定戦で勝利を収め、年間チャンピオンとなり、フォルランは1年間に2つのタイトルを獲得。個人では、34試合で8ゴールという成績に終わったが、生え抜きの若手選手たちの模範となり、日々の練習の中で多くの教えを残した。ワールドカップMVP(2010年の南アフリカ大会)の肩書を持つスターが、最愛のクラブにもたらした恩恵は、間違いなく数字以上のものだった。

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