“赤い彗星”金古聖司はいま──。高校サッカー部監督として美学を貫く40歳の「埼玉奮闘記」

2020年09月08日 河野正

きっかけは恩師の「指導者はどうだ?」

本庄一を率いる金古監督。娯楽性に富んだスタイルを標榜する。写真:河野正

 埼玉の本庄第一高校女子サッカー部は、1993年度の第2回全日本高校女子選手権大会を制した古豪で、国際Aマッチ96試合に出場した元なでしこジャパンの名GK山郷のぞみ、主将としてアテネ五輪など多くの国際大会で活躍したDF磯崎浩美らを生んだ名門である。

 今回はその女子ではなく、第99回全国高校選手権・埼玉大会1次予選を間近に控えた男子チームを紹介する。

 創部は前身の本庄女子高校が共学となった93年、Jリーグが開幕した年だ。2008年度の新人大会準優勝を皮切りに翌年の全国高校選手権埼玉大会で8強入りすると、12年度には同大会で初のベスト4、インターハイ予選も8強に進出して中堅校へと成長していった。

 現在指揮を執るのが、16年4月に就任した元Jリーガーの金古聖司監督だ。就任5年目と40歳の節目のシーズンとあり、「チームを強くするのがどれだけ大変なことかを実感し、指導者として成長できた5年間ですかね」と、穏やかな口調で語った。
 
 全国屈指の強豪、東福岡高校出身。2年生で守備の要人となり97年度はインターハイ、全日本ユース、高校選手権の3冠に輝いた。翌年はU-19日本代表のレギュラーとして、1学年上の小野伸二や本山雅志らとともにアジアユース選手権で準優勝し、99年のワールドユース(現U-20ワールドカップ)出場に尽力。さらに主将らしい働きぶりで高校選手権2連覇を達成するなど、往時の高校生年代では別格のセンターバックだった。

 複数のJリーグクラブから勧誘された末、99年に鹿島アントラーズへ加入。だが故障を重ねた不運もあって持てる力を出し切れず、3チームへの期限付き移籍を経て08年に退団する。翌年からシンガポールやミャンマーなど東南アジアの4クラブでプレーし、15年をもって引退した。

 そうして高校の恩師、志波芳則総監督に現役引退を報告した際、「指導者はどうだ?」と打診されたのが本庄一の監督だった。当初はあまり乗り気でなかったが、16年2月の新人大会決勝をこっそり観戦。昌平に敗れはしたがチームの可能性を感じ、「わたしも高校サッカーに育ててもらった人間」との思いもあって承諾する。17年には水色から東福岡と同じ赤色のユニホームに変えた。

次ページ「1年目は感情を出しすぎて失敗しました。未熟でしたね」

みんなにシェアする
Twitterで更新情報配信中

関連記事