内田篤人がサッカー界で本領を発揮するのはむしろこれから? 本質を見抜く目に、日本人最高レベルの経験値も

2020年08月23日 加部 究

【識者の視点】北京五輪の屈辱から多くの選手が海外に飛び出す中で、内田もドイツへ。日本代表が最も充実していたザック体制前期

23日のG大阪戦が現役ラストマッチとなる内田。日本代表では攻守に貢献度の高いプレーで右サイドを支えた。写真:サッカーダイジェスト

 ゲルゼンキルヘンの中央駅は殺気立っていた。地元のシャルケ04が、伝統のルール・ダービーでドルトムントに逆転負けを喫した。しかもライバルクラブは3日前にバイエルンとの首位攻防戦も制し、連続無敗記録を「25」に伸ばして意気揚々と帰っていく。警官に制止されたシャルケのサポーターは、唾を吐き罵声を飛ばして精一杯の抵抗を示していた。

 シャルケのスタメンとして85分間プレーした内田篤人は、ミックスゾーンに顔を出すと飄々と話し出した。顔見知りが多かったせいか、雑談も混じりそこに本音が覗いた。
「青と黒(チームカラー)のスパイクしか履けないなんて、こっちへ来て初めて知った。結局試合には勝たなきゃね。1対1の勝率とか、走行距離とか、勝てばどうだっていい」

 その後はドイツと日本のレフェリーの力量の乖離など、忖度なく真実を率直に口にするところが内田らしかった。

 8年前の春、日本サッカーは確実に上げ潮ムードに包まれていた。2010年の南アフリカ・ワールドカップを終え、シャルケに移籍した内田はいきなりレギュラーの座を掴むと、チャンピオンズ・リーグ(CL)でクラブ史上初のベスト4に進出。香川真司はドルトムントの中核として大ブレイクを果たし、前述のバイエルン戦翌日にオランダへ足を延ばすと「VVVフェンロ-フィテッセ」戦では、吉田麻也を筆頭に両軍合わせて3人の日本人選手がベンチ入りしていた。また同じくVVVで基盤を築いた本田圭佑はCSKAモスクワで躍動し、チェゼーナからインテルへ飛躍した長友佑都はCLで内田との日本人対決も実現させた。歴史を振り返っても、日本代表が最も充実していたのは、苦手だったアルゼンチンを下し、カタールのアジアカップで優勝を飾り、ライバルの韓国を3-0で一蹴したアルベルト・ザッケローニ体制前期だったのではないかと思う。

 基盤になったのは、結成当初は期待薄とみられていた2008年北京五輪に出場したチーム。実際彼らは五輪で3連敗を喫している。

 大会を去る時に反町康治監督は、すすり泣きが響くロッカーで選手たちに伝えた。
「オレはもうこうして海外で試合をすることはないだろうけど、あなた方はこれからもどんどん国際経験を積み重ねていくだろう。10年後に、また会おう。だからそれまではどんなカテゴリーでもいいから、現役を続けるんだぞ」

 結局世界との差を体感した選手たちは、屈辱をバネに次々に海外へと飛び出していった。

 キャリアを見る限り、内田は典型的なシンデレラボーイだ。鹿島で高卒1年目からレギュラーに抜擢され、2年目からはチームの3連覇に貢献。ブンデスリーガでも強豪チームに移籍しながら、あっさりとスタメンを掴み取っている。

 しかも輝かしいのはキャリアだけではなかった。業界内では「内田を表紙にすると売り上げのケタが変わる」との伝説が生まれたほど、女性の新規ファンを一気に開拓していった。シャルケの練習を見学した経験はないが、日本代表が欧州ツアーに出れば必ず「ウッチーサポ」の塊が目に入った。部活出身なのに涙や汗の匂いがなく、いつも涼しげに及第点のプレーをこなしていく。もちろん内田には、走力やキックの精度などのベースがあり、本場で経験を重ね状況判断も磨かれて来た。だが同時に、こうして喜怒哀楽の表現を最小限にとどめられるメンタルも、SBとしては重要な資質だったのだと思う。
 

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