【U-20激闘譜】「あの敗戦がなかったら…」屈辱の韓国戦惨敗で世界に目覚めた永井謙佑。U-20W杯連続出場が途切れた衝撃

2020年07月12日 元川悦子

「曜一朗や宏太、サコ、元気。みんなメチャメチャうまかった」

日本代表FW陣のなかでもスピードという抜群の武器を持つ永井。写真:金子拓弥(サッカーダイジェスト写真部)

 90年代以降、日本のユース世代は幾度となくアジアの壁を突破し、世界への挑戦権を手にしてきたが、そこにはこの年代ならではの課題や示唆に富むドラマが隠されている。長きにわたり、日本のU-20年代の取材を続けてきた識者が、ポイントとなった世代をピックアップし、キーマンにオンライン取材で直撃。当時のチームについて検証していく。2008年のU-19アジア選手権に挑んだチームを取り上げる今回は、FC東京に所属する日本代表FWの永井謙佑に話を訊いた。(取材・文●元川悦子/フリーライター)

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 1995年カタール大会を皮切りに、97年マレーシア、99年ナイジェリア、2001年アルゼンチン、2003年UAE、2005年オランダ、2007年カナダと7大会連続でワールドユース(現U-20ワールドカップ)出場を継続してきた日本。このうち6大会で決勝トーナメントに進出し、ナイジェリアでは準優勝も達成している。「日本の育成年代は急激に力をつけてきた」というのは2000年代の世界のスタンダードになっていた。

 その輝かしい記録が途切れたのが、2008年U-19アジア選手権(サウジアラビア)だ。牧内辰也監督(現岡山アカデミーダイレクター)率いるU-19日本代表はイエメン、イラン、サウジアラビアと同組に入り、勝点7を確保してなんとかグループ1位通過を果たしたものの、2009年エジプト大会出場権の懸かる準々決勝で宿敵・韓国に0-3で破れてしまった。シュート数1対16という衝撃的な完敗は当時の日本サッカー界に重くのしかかった。ピッチに立っていた選手たちは当然、責任を痛感する。当事者のひとりである永井謙佑(FC東京)は大いなる屈辱感が今も消えることはないという。

「前半の1失点目の取られ方が非常にあっさりやられた印象が残っています。韓国は背の高いFWを前線に置いてパワープレー気味に来ていたけれど、村松大輔選手や金井貢史選手(清水)を軸とした最終ラインは跳ね返すタイプではなくて、ずっと押し込まれたイメージがありました。球際でも負け続けてボールも保持できなかった。ハーフタイムに牧内さんから『もっとやらないとダメだ』と激しい口調で鼓舞していただきましたが、長身FWに蹴り込まれた後の対応で後手を踏み続け、後半に2失点して全てが終わってしまった。試合終了の瞬間はすごくボーっとしていた記憶があります。7大会も続いた世界への切符を取れず、自分たちが歴史を途絶えさせてしまったことに対して、申し訳ないという気持ちでいっぱいでした」

 負の歴史を残す結果になった牧内ジャパンが発足したのは2007年春。1世代上の梅崎司(湘南)、槙野智章や柏木陽介(ともに浦和)、内田篤人(鹿島)らが同年7月のカナダ大会に向かっていた頃だった。槙野や内田らも2006年秋のアジア最終予選で苦労し、準々決勝でサウジアラビアを辛くも倒して切符を手にしていた。アジア突破、世界切符獲得への厳しさを指揮官は繰り返し選手に強調し、映像も見せ、刷り込みを図った。同時に飛び級で同大会に参加した香川真司(サラゴサ)も招集し、経験を伝えようとした。

 2007年4月の合宿で初招集された永井は18歳当時の胸中をこう述懐する。

「香川真司選手や金崎夢生選手(名古屋)は1世代上のU-20代表に絡んでいて、ズバ抜けて能力が高かった。そのレベルに追いつかないと生き残れないし、世界にも行けないという自覚はありました。牧内さんが招集したアタッカーは彼らだけじゃなくて、U-17ワールドカップ経験のある曜一朗(柿谷=C大阪)や宏太(水沼=横浜)、年下のサコ(大迫勇也=ブレーメン)や元気(原口=ハノーファー)という錚々たる選手たちで、みんなメチャメチャうまかった。技術的には高いのが当たり前で、さらにハードワークや連続して動くこと、激しく戦うことを強く要求されました。『なんで大学生の自分がここにいるんだろう……』という不思議な感覚もありましたけれど、彼らと一緒にやることで成長していけたと思います」
 

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