【連載】週刊サッカーダイジェスト・メモリアルアーカイブ その2――1993年11月17日号

2015年02月16日 サッカーダイジェスト編集部

日本人の脳裏にいまだ痛みを伴う記憶として残っているあの一瞬。

週刊化5号目では日本サッカー最大の失望をレポートすることとなった。

 昨年で週刊誌としての役割を終え、新たな時代に突入したサッカー専門誌「サッカーダイジェスト」。実に21年にもおよんだ媒体の歩みは、日本サッカーの急成長と世界のサッカー界の大変動とともにあった。
 
 そこで新たなシリーズとして今回より、21年間のなかで、その時々に起こった当時のサッカー界を象徴する出来事や、忘れていた懐かしいあのニュースを、通算で刊行数1000冊以上を数えた"週刊SD"の誌面とテキストとともに振り返っていく。
 
 Jリーグフィーバーから日本サッカー最大の悲劇、28年ぶりの悲願達成、W杯共催、2002年の熱き1か月間、日本人選手の海外進出、W杯での悲喜こもごもetc.……懐かしい、あるいはまだ記憶に新しい事象の数々を、ここで思い出していただこう。
 
 第2回は1993年11月17日号。初のワールドカップ出場を目前にしながら、ロスタイムで夢が潰えたあの悪夢の結末……。「ドーハの悲劇」として長く後世に伝えられるであろうあの一瞬を、本誌はどのように報じたのか!? ここに振り返ろう。
 
――◇――◇――
 
 アメリカ行きのチケットを賭けたアジア最終予選。カタールに集結した6か国が総当たりで戦い、上位2チームだけがワールドカップの大舞台に上がることを許される。
 
 その厳しい戦いで、日本は初戦でサウジアラビアを攻めあぐねてスコアレスドロー、続くイランにはミスにつけ込まれて2点を失い、痛い黒星を喫してしまう。2戦を終えて最下位に沈んだ日本だったが、後のない状況で踏ん張り、北朝鮮には3-0の快勝、そして因縁の韓国には三浦知良の決勝ゴールで、1-0と歴史的な勝利を飾った。
 
 もうアメリカ行きは決まったも同然!!――。
 
 そんな早すぎるお祝いムードが、決戦の地から遠く離れた日本を包んでいたが、最後の相手であるイラクは、確実に勝てるような相手ではなかった。日本よりも早くワールドカップ出場を果たしている(1986年メキシコ大会)強敵相手の戦いは、選手たちにとっても、観る者にとっても苦しみに満ち溢れたものとなった。
 
 はるばるドーハまで駆け付けたファンはもちろん、歴史の扉が開く瞬間を直に目撃しようと、日本中が注視した一戦は、セルジュ・ムーメンターラー主審の笛によって戦いの火蓋が切られた。
 
 序盤に長谷川健太のシュートがクロスバーに跳ね返るところをカズが頭で詰めて先制するも、そこからは防戦一方となり、後半にアーメド・ラディの同点を許す。しかし日本は、ラモス瑠偉のスルーパスに抜け出した中山雅史が決めて勝ち越し。いよいよ夢のワールドカップ出場が実現する瞬間までこぎつけた。しかし……。
 
 そこからの必死の防御、ロスタイム突入、イラクのCK、フェイントからのセンタリング、オムラム・サルランのヘッド、ゆっくりと弧を描いてゴールネットを揺らしたボール、崩れ落ちる日本の選手たち……全ての場面は、日本の人々の脳裏に痛みを伴う記憶として、深く刻み込まれた。
 
 では、この日本サッカーの歴史に永遠に刻まれた一戦の、当時の本誌によるレポートを抜粋して紹介しよう。

次ページ実力以上のものを出し切っても本大会行きには力不足だった…。

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