オフト時代に初招集の可能性も「無理です」と拒否【ファルカン・ジャパンの“10番”岩本輝雄の栄光と苦悩の記憶|EP1】

2020年06月12日 広島由寛(サッカーダイジェストWeb編集部)

「“ドーハの悲劇”は、朝のニュース番組で知った」

ファルカン・ジャパンで日本代表に初選出。まさか自分が選ばれるとは思っていなかった。(C)J.LEAGUE PHOTOS

<プロローグ>
 もう大丈夫だろう、と勝利を確信して、岩本輝雄はベッドにもぐりこんだ。

 1993年10月28日の深夜。高校卒業後に加入したフジタ(現・湘南/当時は2部リーグにあたるJFL所属)で3年目を迎えていた21歳のテルは、テレビを消した。明日も練習がある。少しでも早く寝ておかないと。

 ついに、日本もワールドカップに出るのか――94年のアメリカ・ワールドカップのアジア最終予選最終節、日本対イラク。この試合に勝てば、日本のアメリカ行きが決まる。試合終盤まで、日本は2-1とリード。期待に胸を膨らませながら、タイムアップを待たずにテルは眠りについた。

 翌朝、テレビの前で愕然とした。嘘だろ……。"日本、ロスタイムで同点に追いつかれる"。この結果、日本は悲願のワールドカップ出場を逃す。ショートコーナーから失点する映像を眺めながら、深い悲しみに打ちひしがれた。頬を伝う冷たいものに気づいたのは、しばらく経ってからだった。

「"ドーハの悲劇"は、朝のニュース番組で知った。悲しすぎて、思わず泣いちゃったよ。一ファンとして、真面目に日本を応援していたんだよ。『北朝鮮に3-0、すげー!』『韓国戦、カズ決めた!』って。絶対にワールドカップに行けると思ってた」

 絶望感を味わった多くのサッカーファンのひとりだったテルだが、実は"当事者"になる可能性がゼロではなかった。

――◆――◆――
<エピソード1>
「あの時の代表で監督だった(ハンス・)オフトが、JFLにも視察に来ていて。たぶん、名塚(善寛)さんやナラ(名良橋晃)を見に来ていたと思うけど、自分にも協会のスタッフから『どうだ?』みたいに、興味を示されたことはあった」

 最終予選を前に、日本代表のキーマンのひとりだった左SBの都並敏史が負傷。その代役候補にリストアップされていたという。

 だがこの時、テルの答は『NO』だった。正式に日本代表から招集されたわけではないが、その前段階できっぱりと「無理です。自信がありません」と意志表示している。

「まだJリーグでもプレーしていないし。冷静に自分の実力を考えて、無理だろうって。そんなレベルじゃないって。性格的にイケイケではあったけど、どこか冷めた目で自分を見ていた」

 大きなチャンスを逃したかもしれないが、その頃のテルにとって、ワールドカップは文字通り、未知の世界だった。

「90年のイタリア大会の時は、ストイコビッチ(ユーゴスラビア代表)やローター・マテウス(ドイツ代表)、サルバトーレ・スキラッチ(イタリア代表)とかを見て、『やっぱ、上手いよな!』とか盛り上がっている普通の高校3年生だった。卒業後にフジタに入ったけど、まだプロでもない自分にとって、ワールドカップなんて現実味がないというか、よく分からない世界だった」
 

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