カズ、中田、中村、本田…セリエAを彩った歴代日本人選手の「リアル評」は? イタリア人記者に訊く【現地発】

2020年05月06日 パオロ・フォルコリン

1試合プレーするごとにスポンサーが金を払う

(左上から時計回りで)中田、三浦、中村、本田。日本を代表する名手たちがセリエAに挑戦した。(C) Getty Images

 1993年夏に"キングカズ"がジェノアと契約して以来、のべ12人の日本人選手がセリエAでプレーしてきた。メディアやファンの目も厳しいこの世界屈指のリーグで、ジャポネーゼたちはいかなる印象を与えたのか――。ベテランのイタリア人記者に訊いた。

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 もしイタリアのどこかのチームが日本人GKを獲得していたならば、セリエAでプレーした日本人選手だけでひとつのチームが作れたはずだ。それもなかなか豪華な。

 イタリアに好印象を残していったサムライは少なくない。中にはその実力を発揮できずに去っていった者もいたが、それでも真面目さ、プロフェッショナル精神、向上心はイタリア人の心に残り、チームメイトたちに良い影響を与えた。日本の伝統的な教育の賜物だろう。

 最初にイタリアにやって来た日本人は三浦知良(現・横浜FC)だった。1993年当時のジェノアの会長アルド・スピネッリは、ヴェルディ川崎でプレーするカズの姿を見て感銘を受けた。そのテクニック以外にも魅力的な点があった。

 イタリアではジェノバ人は一般的に"ケチ""金に汚い"と言われているが、スピネッリもその例に漏れない。彼が三浦獲得を決めたのは、ジャパンマネーを見越してだった。1試合プレーするごとにスポンサーが金を払う――。こうして契約は成立した。

 結局、三浦は21試合に出場して1ゴールを決め、スピネッリは"円"を手に入れた。1シーズンで契約は終了し、日本のスターは去っていた。しかし、残した功績は小さくない。このパイオニアのおかげで"壁"は取り払われた。イタリア人にとって、それまで日本はサッカー未開の地だった。「世界最高峰」を謳っていたセリエAとは無縁のものだと考えられていた。その概念を打ち壊したのが、このストライカーだったのだ。
 
 おかげで、98年夏に中田英寿がイタリアにやって来た時、「寿司がピザの国に何をしに来たのか」とは、決して言われなかった。おかげで若き司令塔はサッカーに集中することができた。

 それにしてもヒデは本当に優秀だった。残留できれば御の字のペルージャでのデビュー戦で、ユベントスを相手に名刺代わりの2ゴールを奪ったインパクトは絶大だった。今でも多くのイタリア人があの時の衝撃を覚えている。

 翌シーズンの途中に移籍したローマでは、2年目に歴史的スクデット獲得に貢献。イタリアでプレーした日本人の中で、間違いなくもっともレベルの高い選手だった。ライバルだったバンディエーラ(旗頭)のトッティがいなければ、ヒデはローマでもっと活躍できたはずだ。それでも、残した印象はこれ以上ないほどポジティブだった。カズが壁を壊し、ヒデが日本人選手のイメージを変えた。
 

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