J1はもう夢の舞台ではない――V・ファーレン長崎の基準を押し上げた2018年の苦闘

2020年04月26日 藤原裕久

『さらに先を見据えるクラブ』へ

18年に初めてJ1を戦う。1年でJ2降格も、その経験は無駄ではなかった。(C)J.LEAGUE PHOTOS

 J1昇格。それはJ2以下の全クラブが掲げる最大の夢だろう。今はまだ難しくとも「いつかはJ1に」と考えないクラブはないはずだ。

 V・ファーレン長崎は、その夢をJリーグ参入5年目の2017年に達成した。同年に発覚した経営不振によるクラブ存続の危機から一転してのJ1昇格は奇跡と呼ばれた。それは間違いなくクラブの、そしてJリーグの歴史に色濃く残る出来事だろう。

 だが長崎にとって、その後に影響を与えたという意味では、昇格の喜びよりも、J1を戦った経験とJ2降格を味わった悔しさのほうが重要だ。

 惜しくも残留を果たせなかったものの、全力を尽くし最後まで食い下がったJ1での戦いを経たことで、長崎にとってJ1という舞台が夢から現実的な目標に変わっていった。現在地を図る時の基準も、常にJ1での戦いを意識するようになった。『J1昇格を夢見るクラブ』から『さらに先を見据えるクラブ』へと進化したのだ。

 高木琢也監督(現・大宮監督)に率いられ、13年、15年には二度、J1参入プレーオフに進出したが、当時の関係者にとって、J1での戦いは現実的にイメージできるものではなかった。どちらかと言えば、考えていたのは昇格までで、昇格後までは見据えていなかったのだ。

 それも当然だろう、強化予算はJ2でも中位以下で、シーズンオフには毎年のように主力を引き抜かれていたチームだ。この時点でJ1昇格はあくまで「将来叶えたい夢」でしかなかったのも無理はない。
 
 そんな遠いはずの夢を、現実へと近づけたのが、チーム強化の継続性だった。決して潤沢ではない強化予算の中で、古参の髙杉亮太や前田悠佑をリーダーに抜擢し、16年には中村慶太と田上大地を、17年には澤田崇、翁長聖、フアンマらを獲得して育成。そうして戦力を上積みしたことが、J1昇格へとつながったのだ。

 昇格を決めた後も、初のJ1に向けて可能な限りの準備を行った。GKからFWまですべてのポジションで、徳重健太、徳永悠平、黒木聖仁、鈴木武蔵らJ1経験のある選手を補強。また高木監督のスカウティングをより高めるためのスタッフも加入させた。

 キャンプの段階から意識的にチーム作りを早めると、苦戦しながらも手堅い守備とハードワークを武器に粘り強い戦いを披露。中村や翁長といった若手はJ1レベルに呼応するように成長し、鈴木も得点源として覚醒し11ゴールを奪うなど、"高木長崎"にとって、ひとつの集大成と言えるチームを作り上げていた。

 それでも、J1残留を果たすことができなかった。
 

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