亡き先達、同胞、肉親に偉大な勲章を捧げたイブラヒモビッチ

2014年11月13日 サッカーダイジェストWeb編集部

8年連続9度の母国最優秀選手となった男が授賞式で見せた涙。

母国スウェーデン・サッカーの顔として、亡き人々へ弔いの言葉を送ったイブラヒモビッチ。 (C) Getty Images

 母国スウェーデンの年間最優秀選手に8年連続で選出されたズラタン・イブラヒモビッチ。2005年に初受賞し、翌年はフレドリック・リュングベリが選出されたものの、以降はずっとイブラヒモビッチが同賞を独占している。
 
 パリ・サンジェルマンでの活躍に加え、スウェーデン代表としても歴代10位の100試合に出場し、得点は歴代最多の50点をマークするなど、他の追随を許さない圧倒的な存在感を放っているイブラヒモビッチの受賞に、今回も何ら異論が出ることはなかった。
 
 かかとの怪我も癒えてリーグアン13節のマルセイユ戦(2-0の勝利)で復帰したイブラヒモビッチは、翌10日の表彰セレモニーに出席し、「自分が優れたサッカー選手であり、何かを成し遂げたことを証明するものだ」として、母国での栄誉を喜んだ。
 
 しかし、すぐに「人生にはサッカーよりも大切なものがある」と語ったのは、今年になってスウェーデン・サッカー界ではクラス・インゲション、ポントゥス・セガーストレームの2人が、そしてイブラヒモビッチの最愛の兄サプコまでが、病によってこの世を去っていたからだ。
 
 1968年生まれのインゲションは20歳で代表入りし、90年イタリア・ワールドカップに出場。2年後の自国開催の欧州選手権(ベスト4)に出場し、94年アメリカ大会では運動量と技術を兼ね備えた守備的MFとしてチームの3位入賞に大きな貢献を果たすなど、スウェーデンの黄金期を支えた。
 
 クラブでは86年にイェーテボリでプロデビューした後、メヘレン(ベルギー)、PSV(オランダ)、シェフィールド・ウェンズデイ(イングランド)、バーリ、ボローニャ、レッチェ(以上イタリア)、マルセイユ(フランス)と欧州の主要リーグを渡り歩き、2001年に現役生活を終えた。
 
 引退後は解説者などの活動を経て指導者の道に進み、2013年には自国のクラブ、エルフスボリの監督に就任。しかし2009年に多発性骨髄腫を発病しており、治療を行ないながらチームを率いてきた。今年に入って病状が悪化し、10月には監督を退任。そして10月29日、妻とふたりの息子を残して逝去した。
 
 一方、イブラヒモビッチと同い年のセガーストレームは、スウェーデン代表に選ばれるような選手ではなかったが、98年に自国のクラブ、ブロンマポイカルナでデビュー。187センチの長身DFは以後、デンマークのオーデンセ、ノルウェーのスタバエクなどでプレーし、リーグ優勝も経験した。
 
 2010年に古巣ブロンマポイカルナに舞い戻り、以降はキャプテンとしてチームをリードしてきた。今年7月31日にはヨーロッパリーグ予選にも出場。7月31日のトリノ戦(0-3の敗戦)では試合途中で退場処分を受けたが、この試合をもって突如、セガーストレームの選手キャリアは終焉を迎えた。
 
 8月に入り、身体の不具合を訴えて検査を受けた結果、脳腫瘍と診断され、懸命な治療が施されたものの、10月13日に33歳という短い生涯を閉じたのである。
 
 そしてこのふたりの死から半年ほど前には、イブラヒモビッチの8つ年上の兄サプコが、長い闘病生活の末に逝去。最愛の兄弟の訃報に、イブラヒモビッチはチェルシーとのチャンピオンズ・リーグ準々決勝・第2戦を欠場して、地元マルメでの葬儀に参列していた。
 
 スウェーデン代表の先輩、同年代の同胞、そして実の兄をいずれも病で失ったイブラヒモビッチは、立て続けの悲報によって沈痛なムードが漂っていた受賞セレモニーで、哀悼の意を表するとともに、自身が得た勲章を故人たちに捧げた。

 会場では、目を潤ませたイブラヒモビッチのスピーチに涙を流す、妻のヘレナ・セーガーの姿もあった。
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