「決断は正しかった」リバプールの絶対的エース、サラーのキャリアを追う――チェルシーでの冷遇、転機となったイタリア移籍【現地発】

2019年05月30日 弓削高志

「74番」を背負った理由とは?

不遇をかこったチェルシー時代のサラー(左)。一躍評価を上げたのがフィオレンティーナ時代(右)だ。(C)Getty Images

 モハメド・サラーの武器は、高速ドリブルや正確なシュート、エリアへ飛び込む得点感覚など多岐に渡る。

 しかし、母国エジプトからスイス、イングランド、イタリア、そして再びイングランドへと渡り歩いてきたキャリアにおいて最大の強みとなったのは、適応能力ではないだろうか。

 エジプトの国内リーグとはいえ、17歳でプロデビューしただけでも早熟の証だが、20歳の夏に移籍したスイスのバーゼルでもすぐにレギュラーの座を獲得。"エジプトのメッシ"の評された若武者は、欧州の舞台でもその名を広め始めた。

 とりわけ12-13年シーズンのヨーロッパリーグ準決勝と翌シーズンのチャンピオンズ・リーグ(CL)グループステージで対戦した強豪チェルシーから、合わせて3ゴールを奪ったインパクトは強かった。14年1月、そのチェルシーに引き抜かれたのだ。

 ところが、意気揚々とやってきた新天地では指揮官ジョゼ・モウリーニョの冷遇にされ、出番をほとんど与えられず。心機一転を図ったサラーは15年冬、出場機会を求めてセリエAのフィオレンティーナへレンタル移籍をする。22歳の大きな転機だった。

 新天地イタリアで、サラーは水を得た魚のように暴れまくった。移籍直後の7試合で、いきなり6ゴール。ヴィンチェンツォ・モンテッラ監督(当時)は「メッシを除けば、地上最速だろう」とそのスピードに惚れ込んだ。
 
 サラーの人となりが垣間見えたのは入団会見だ。背番号74を選んだ理由を問われると、「ちょうど『ポートサイドの悲劇』の3回忌があったばかりだから。犠牲者を追悼するために(同じ数を)選んだ」と返答した。

 ポートサイドの悲劇とは、12年2月1日、ポートサイド・スタジアムで行われたエジプトのリーグ戦で、アル・マスリとアル・アハリのファンが衝突して74人の犠牲者を出した、「エジプト・サッカー史上最悪の惨事」とも言われている事件である。

 選手にとって背番号は第2の顔とでもいうべき大事なもの。サラーは、当時22歳の若さにもかかわらず、母国の悲劇に思いを寄せ、過去から学んで未来を切り拓こう、という思いを込めたのだ。崇高な精神の若武者は、フィレンツェの人々からこよなく愛された。
 

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