武南を日本一に導いた埼玉の名将が勇退。46年に及ぶ波瀾万丈の日々に終止符を打つ

2019年04月18日 サッカーダイジェストWeb編集部

小中学生たちが憧れた「白&紫のユニホーム」

春のフェスティバルでチームを見守る大山氏。高校サッカー界の名伯楽がまたひとり、第一線を退いた。写真:河野正

 武南高校サッカー部を全国屈指の強豪に栄達させた名将、大山照人監督(68歳)が、この3月をもって勇退した。埼玉県勢は武南をはじめ浦和、浦和西、浦和市立(現・市立浦和)、浦和南の5校が全国高校選手権を制しているが、これで同選手権の優勝監督が指導現場からいなくなった。
 
 大山監督は1973年4月、日本体育大学卒業とともに武南高校に保健体育科教諭として着任し、創部8年目を迎えたサッカー部の指導を始めたが、当初は驚きの連続だった。
 
 就職手続きのため3月に初めて学校を訪れると部員は1、2年生合わせて8人しかおらず、校庭は猫の額ほどの狭さで、強化試合もフォーメーション練習もできない。さらに県外合宿はおろか、校内での合宿さえ校則で禁止されていた。学校側から「サッカー部を強くしてほしい」と三顧の礼をもって哀願されたが、取り巻く環境はきわめて厳しかった。
 
 しかし徳島県から上京し、日体大サッカー部の選抜試験に1度落ちても気後れせず、入部許可が出るまで諦めなかった生来の負けん気の強さを発揮。埼玉高校サッカー界の右も左も分からず、頼るひともいなかった若き"外様監督"は、選挙活動中の候補者のように「武南の大山です、よろしくお願いします」と行脚しながら頭を下げ続け、練習試合を組んでもらった。

 
 やがて武南のサッカーは全国的に認知され、白-紫-白色のユニホームを纏って演じる美しいパスワークと反則の少ないクリーンな戦いぶりは、小中学生の憧れの的になった。
 
 「バイタリティーがあり、やってやるぞという精神が旺盛だったからねえ。強豪校の監督からいじめられても相手にされなくても、正しいと信じたことを曲げずに貫いた」
 
 春の山梨、夏の四国遠征などを通じて強化した就任3年目のチームにはかなりの手応えを感じたが、全国高校選手権予選では浦和南に0-5と惨敗。浦和南は現・日本サッカー協会会長の田嶋幸三を擁し、最後の関西開催となった第54回大会で2度目の優勝を遂げるほどのすご腕だった。
 
 この栄冠を見届けた瞬間、明確な目標ができた。大山監督は「うちが少しくらい強くなったといっても、浦和の4校はもっと強い。そのなかで一番強い浦和南に対抗する力を付ければ、自分たちも全国で勝てるレベルに到達できると確信した。浦和南に大敗したことが、すべての始まりでした」と往時を述懐する。

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