霜田レノファでついにブレイク!? 一度は“消えかけた天才”吉濱遼平に爆発の予感が漂うワケ

2019年03月15日 竹中玲央奈

破天荒な経歴。「ヤンチャをして」1年以上サッカーから離れたことも… 

今季、山口に新天地を求めた吉濱。早くも1ゴール・1アシストと結果も残している。(C) J.LEAGUE PHOTOS

 攻撃的なサッカーを展開しJ2でも異彩を放つレノファ山口FCの指揮官・霜田正浩の持つ言葉の力に引き寄せられて、オレンジ色のユニホームに袖を通すことを決めた選手は多いのではないだろうか。
 
 今季、町田から完全移籍をした吉濱遼平もそのひとりである。
 
「霜さんと1時間くらい話をして、いつも自分のポジション(4−3−3のインサイドハーフ)は7番と8番と言われているのですけど、そのプレーモデルはこうこうこうで、こういうプレーをしてほしいと。ベルナルド・シウバの映像を見せてもらって、こういうプレーをしてほしいとも言われて。やりがいもあるし、そういう映像を見ながらどれだけ自分が結果を残せるか、と。自分が考えている理想のチームに来れたなと思いました」
 
 後出しのようになるが、この移籍の報を聞いた時は、クラブと選手にとって"双方良し"になると確信した。そして、例えばこのクラブから小野瀬康介がG大阪へ羽ばたいたように、彼もまた"山口経由"でステップアップする選手になるかもしれないと、強く感じたものである。
 
 ただ、この移籍に高揚感を抱いた者は、それほど多くないかもしれない。というのも、この26歳のレフティについては、これといった華々しい経歴があるわけではない。アンダー世代で目立った活躍をしたこともないどころか、成長過程における重要な高校年代で1年半ほどサッカーから離れていた時期もある。そんな非常に珍しい経歴の持ち主なのだ。
 
 ただ、いわゆる"才能"はあった。野球出身である父親が買ってきた野球ボールを手に取ることなく足で蹴り続け、それを見た母親がサッカーボールを幼少期の吉濱に与えたことがサッカー人生のスタートだった。地元である川崎のクラブチームでも際立った存在となり、中心選手として活躍を続け、川崎フロンターレのスクールへも入団。
 
 その中でも「小1、2くらいから小5や小6と一緒にやっていた」というほどの存在感を示していたという。言うまでもなくそのままU-15、U-18と歩んでいったのだが、高校1年の時に「いろいろヤンチャをして」チームを退団。前述したとおり、その後はサッカーから離れた生活を送るという破天荒ぶりだった。
 
 しかし、彼が通っていた高校の先生がサッカーを続けることを強く薦め、「11人いるかいないか」のサッカー部でプレーを再開。先生の後押しもあり、大学でもサッカーを続けることになった。
 

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