日本中を驚かせた板倉滉のマンC完全移籍。「ギリギリ」でプロ入りを掴んだ男が世界のメガクラブからオファーを受けるまで

2019年01月21日 林 遼平

仙台で過ごした昨季が「いいサイクルだった」とした理由は?

川崎U-18時代は世代別代表の常連ではなかったが、今では東京五輪世代の主軸候補として期待を懸けられている。(C)Getty Images

 1月14日、日本サッカー界に驚きの一報が届いた。昨季まで仙台に所属していた板倉滉がマンチェスター・シティへ完全移籍し、2020年の夏までフローニンヘンへ期限付き移籍することが発表されたのである。

 東京五輪世代となるU-22日本代表の常連で、Jリーグでも出場機会を増やしていた有望株ではある。だが、世界のトップを走るクラブへの電撃移籍は多くの人を驚かせたに違いない。

 ここに至るまで、板倉自身、決して輝かしい道のりを歩いてきたわけではない。川崎U-18時代は"アカデミー最高傑作"と呼ばれた同期・三好康児(横浜)の後塵を拝し、世代別代表にもあまり縁がなかった。プロにしても最後まで大学進学を考えていたほどで、本人曰く「ギリギリ」で2014年にトップチームへ昇格している。

 さらにプロに上がっても「あまりにも周りとの差があった」と振り返るようにトップチームのレベルについていけず、試合どころか紅白戦にも入れない日々。2年目にやっと出場機会を得たが、リーグ戦の出番は2試合のみで3年目も5試合の出場に止まっている。
 
 ただ、悔しいからといって何かを諦めるタイプではなかった。どんな時でも明るく、人一倍負けず嫌いな男は、目の前のものに必死でぶつかっていった。ACLで広州恒大の元ブラジル代表パウリーニョに圧倒されようとも、2017年のU-20ワールドカップで悔しい敗戦を喫したとしても、チームで出場機会が少なくなっても。悔しさを糧に自身の成長につなげてきた。決して自分がエリートではないと知っているからこそ、失敗と成功を繰り返しながら地道に一歩ずつ前に進んできたのだ。

 昨年は大好きな川崎を離れて、新たな景色を見る決断を下した。そして期限付き移籍で加わった仙台では主力を担いながら、U-21日本代表の中軸としてプレー。ひとつずつ階段を上っていく姿が、そこにはあった。シーズンも終盤の11月、ドバイの地で板倉はこの1年の歩みについて自身の思いを明かした。

「やっぱりこうやって毎週試合に出られることは自分にとってプラスだし、リーグ戦や公式戦じゃないと感じられない部分がたくさんあることが分かった。ゲームに出続けながら足りないところや課題を克服したりできるというのは、すごくいいサイクルだったと感じている」

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