【指揮官コラム】三浦泰年の『情熱地泰』|J2昇格を前にセルジオ越後さんが教えてくれたこと

2018年12月02日 サッカーダイジェストWeb編集部

鹿児島を訪れた大事なサッカーの師

33節の沼津戦に勝利し、ホームサポーターの前でJ2昇格を決めた。来季は、鹿児島にとってクラブ初のJ2挑戦となる。(C) J.LEAGUE PHOTOS

 目標の昇格が達成できた。たくさんの人たちに感謝の気持ちでいっぱいだ。本当にありがとうございました。
 
 そしてこのコラムを楽しみにしている人たちには本当に申し訳なく思っている。シーズン終盤に入り、なかなかコラムを書くことができなかった。久しぶりのコラムになる。
 
 先日、昇格争いをするなか、シーズン残り4試合というタイミングで偶然、セルジオ越後さんが鹿児島へ見えた。講演の仕事で訪れたそうだが、友人が越後さんにお会いできるように連絡をくれた。
 
 いまや、セルジオ越後さんをサッカー評論家として知る人が多い時代になったのであろうが、越後さんと言えば、憧れのビッグスターだったのである。
 
 その存在のおかげで日本にブラジル(海外)のサッカーが広く伝わったと言ってもいいかもしれない。その点においては、第一人者みたいな存在なのだ。
 
 ブラジル国籍の日系ブラジル選手としてコリンチャンスでプレー(コリンチャンスとは、日本のプロ野球でいうと以前の巨人軍)した。同僚には、ペレの次の10番を背負ったリベリーノがいて、越後さんのプレーを絶賛したという。
 
 僕ら少年時代、三浦少年にとってもカリスマ的存在だ。名実共に当時のサッカー界では抜群の存在感を持っていた。
 
 僕はセルジオ越後さんが全国を回るサッカースクールのスクール生でもある。その妙技からサッカーの魅力を存分に教わった。そして、監督でありながら今も変わらず越後さんから刺激を受けている、ひとりのサッカー少年なのである。
 
 鹿児島では、会食の場で挨拶がてら30分ほど時間をいただいて話をした。翌日には、朝練習を覗いてもらい感謝、感謝。
 
 僕が11歳の頃、確か小学5年か6年生だった。セルジオ越後さんが静岡学園のサッカー部を教えに来た時、初めて指導を受けた。あれから42年。サッカーの師として僕の大事なサッカー人のセルジオ越後さんが目の前にいる。
 
 何年ぶりに会えたのであろう。いつまでも日本サッカー界を支えてほしい。

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