地域リーグから順調なステップアップ。北野監督はサクセスストーリーの主役だった
最終節で残留の望みが完全に潰えた讃岐。北野監督のラストマッチとなったが、スタンドでは多くのサポーターが別れを惜しんだ。(C) J.LEAGUE PHOTOS
勝てばわずかながらJ2残留の望みが残された一戦に臨んだ讃岐だったが、その幕切れは思いの外あっけないものだった。
最終節、ホームで行なわれた京都戦。讃岐は1点を追うゲーム展開のなか、後半アディショナルタイム突入直後にカウンターから追加点を許し、勝敗は決した。
"21位"を争っていた熊本は、同時刻におこなわれた愛媛戦で3-0の快勝。 讃岐の残留への望みは完全に潰え、5シーズンに渡って戦い続けたJ2の舞台に別れを告げた。
讃岐にとってはこの一戦がクラブとしての歴史に大きなピリオドを打つ試合になったことは言うまでもない。ただ、それはクラブがJ3降格という憂き目にあったという事実からもたらされるのではなく、クラブを象徴する存在のラストマッチであったという側面のほうが大きい。
その存在とは、今季限りで退任が発表されていた北野誠監督のことだ。
北野監督は熊本で指揮を執った09年終了後、自身の生まれ故郷にJリーグクラブを誕生させるべくカマタマーレ讃岐の監督に就任した。ただ、夢と希望はあったものの、当時のチームのカテゴリーは4部相当の四国リーグ。選手のプロ意識もまだまだ希薄で、J昇格は決して簡単に叶う夢ではなかった。
それでも優れた手腕を発揮する指揮官は1年でチームをJFL昇格へ導くと、JFLでも1年ごとに順位を上げて着実にJ昇格への階段を登り続け、13年にリーグ2位の成績を収めてJ昇格への挑戦権を手に入れた。
そして鳥取と争うこととなったJ2・JFL入れ替え戦を1勝1分けで勝ち抜き、ついに悲願を達成した。
順調にチームをステップアップさせてきた北野監督はまさにサクセスストーリーの主役だった。サッカー不毛の地と言われた香川県に"ホンモノ"のサッカーを見せる舞台をもたらし、まだ見ぬ未来も明るいものかと思われていた。
しかし、実際に待っていたのは苦難の連続だった。
「その後の5年間はずっとしんどかった」
昇格初年度からJ2・J3入れ替え戦に回り降格の危機に瀕すると、その後も毎シーズンのように残留争いを強いられるなど成績は低迷し続けた。