何度も喧嘩し、時には練習からも――「田舎のチンピラ」マンジュキッチを手懐け、信じ続けた伝説の名将とは?

2018年10月19日 ワールドサッカーダイジェスト編集部

何度も喧嘩し、時には練習からも追い出す。

マンジュキッチは準優勝を果たしたロシアW杯を最後に、クロアチア代表を引退した。(C)Getty Images

「ヂルコシュ」

 2006年にNKザグレブの監督に就任したミロスラフ・ブラジェビッチは、当時20歳のマリオ・マンジュキッチに対して「田舎のチンピラ」という意味のニックネームを授けた。

 98年のフランスW杯でクロアチアを3位に導き、母国では「監督の中の監督」と評されるほど崇拝される名将は、一方でエキセントリックな言動で幾度となく物議を醸してきた人物だ。

「マンジュキッチは頑固な性格で、一度こうと決めたら他の選択肢はないんだ。汚い言葉を投げかけて喧嘩もしたし、練習から追い出したりもした。私が監督である以上、どんな選手だって生意気にはなれないよ。なにせ私が一番生意気だからね(笑)。でも、彼は愛すべきヂルコシュだった」

 クロアチア東部のスラボンスキ・ブロード出身のマンジュキッチは、地元クラブのマルソニア(2部)で台頭し、NKザグレブ入団2年目の06-07シーズンには「彼よりも狂った選手や偉大な選手を手懐けてきた」と語る名伯楽ブラジェビッチの下で才能が開花。11ゴールを挙げる活躍を見せ、07年3月にはA代表からも声が掛かった。
 そんな教え子をブラジェビッチは、「信じてくれ。マンジュキッチはひとりで敵の守備陣を倒せる。スピード、勇敢さ、狡猾さといった、モダンなフォワードに必要な全ての能力を持った選手なんだ」と手放しで称賛していた。

 翌シーズンにマンジュキッチは名門ディナモ・ザグレブへの移籍を果たし、以降はスターダムへと伸し上がっていくが、ブラジェビッチは常にその良き理解者だった。

 ヴォルフスブルク時代には「僕には名字も名前もあるんだから、もう『ヂルコシュ』と呼ぶのは止めてくれ」と反発されたが意に介さず、バイエルンを追い出された際には「ペップ・グアルディオラはペテン師だ!!」と心の叫びを代弁。ディエゴ・シメオネと対立したアトレティコ・マドリー時代にも、「彼のような選手の扱い方を知らない監督のほうに問題がある」と擁護に回った。

次ページついに恩師があのニックネームを撤回する。

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