晴れやかな笑顔で躍動する中島翔哉。これほど楽しそうにプレーする日本人がいただろうか?

2018年10月19日 吉田治良

「楽しむこと」が許されなかった時代が、ほんの四半世紀ほど前までは確かにあった

森保ジャパンの10番を背負う中島は、真剣勝負を心から楽しんでいる。写真:山崎賢人(サッカーダイジェスト写真部)

 いまからちょうど20年前の話だ。
 
 日本が初めてワールドカップ出場を果たした1998年のフランス大会が3戦全敗に終わった時、国内ではひとりの選手が戦犯として槍玉に挙げられていた。
 
 大会期間中に23歳になったばかりの若きエース、城彰二である。
 
 ゴールを奪えなかったこと以上に、「ガムを噛みながらプレーして、決定機を外してもへらへらと笑っている」姿が、多くの国民の反感を買ったのだ。
 
 エースの重責を背負い、ワールドカップの大舞台に臨んだ城が、食事も喉を通らず、食べては吐いてを繰り返すほどのプレッシャーに苛まれていたことは、のちの報道によって世に知らされる。ガムを噛んでいたのも、無理に笑顔を作ってみせたのも、極度の緊張状態を和らげるためだった。
 
 ただ、当時の世間は許さなかった。
「試合中に笑うなど不謹慎だ」
 帰国した城に、空港でペットボトルの水が浴びせられた。
 
 それよりもさらに2年前。96年のアトランタ五輪で、期待された日本の競泳陣はひとつもメダルを取れなかった。期待は失望に、失望はやがて批判に変わり、その矛先は当時史上最強との呼び声もあった女子競泳チームのキャプテン、千葉すずさんに向けられた。
 
 取り沙汰されたのは、「楽しいオリンピックにしたい」という、大会前に再三メディアを通じて発信された言葉だった。
「真剣さが足りないから勝てないのだ」
 若い選手たちをプレッシャーから解放するための千葉さんの発言はしかし、水泳界の重鎮たちの怒りを買い、当時は多くの国民もそれに同調していたように記憶する。
 
「笑うこと」が、「楽しむこと」が、日本のスポーツ界で許されなかった時代が、ほんの四半世紀ほど前までは確かにあった。
 いや、体育会系の根性論はいまも根強く残り、血の味のする唾を飲み込んでこそ、足が折れても走り続けてこそ一流のアスリートになれるのだという精神至上主義が、一掃されたわけではない。
 
 それでも、時代は確実に変わりつつある。
 
 ウルグアイ代表との親善試合で、背番号10のユニホームをまとった中島翔哉が、それを実感させてくれた。
 
 ボールを持ったら、必ず前を向いて仕掛ける。コースが空けば、これでもかとばかりにミドルを撃ち込む。先輩たちへの遠慮など毛ほどもない。さらには、切れ味鋭いシザースフェイントで百戦錬磨のマルティン・カセレスを手玉に取ったかと思えば、CKを蹴る前には跨ぎリフティングを披露して、観客をどっと沸せてみせる。
 

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