15歳の決断~松井大輔はなぜ鹿児島実を、高校サッカーを選んだのか

2018年01月16日 川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)

いまは亡き大恩師への想い「感謝しかない」

フィジカルとメンタルを鍛え上げ、持ち前のテクニックにも磨きをかけた鹿実時代の松井。高校生にして独特の雰囲気を醸し出していた。(C)SOCCER DIGEST

 ポーランド2部リーグのオードラ・オポーレでプレーする元日本代表MF、松井大輔。36歳となったいまでも、フットボールへの情熱に陰りは見られない。
 
 これまでフランスやロシア、ブルガリア、ポーランドと数多の国とクラブを渡り歩いてきた男のキャリアにおいて、最初の大きな転機となったのが、鹿児島実業高校への越境入学だ。1997年当時、すでに関西のJクラブユースは整備が進み、ガンバ大阪、セレッソ大阪、京都サンガが一定の評価を得て、タレントがひしめいていた。地域トレセンに選出されるなど引き手数多だった15歳の大輔青年は、なぜ生まれ育った古都・京都を離れ、遠い九州の地で新たなチャレンジをスタートさせようと決意したのか。みずからが信じる道を突き進む、孤高のドリブラーの原点がそこにある。
 
「言ってみれば、いちばん厳しいところを選んだ。中学のチームの先生が、『もう技術に関しては教え終わってるし、こっから急には上がらない。高校はフィジカル。身体を作るのにいちばん厳しい環境を選んだほうがいい』とアドバイスしてくれたんです。それで最終的に僕が自分で、鹿実を選びました」
 
 鹿実時代の松井を指導したのは、昨年8月に他界した松澤隆司監督(当時)だ。サッカー人生における大恩師からなにを学び、なにを叩き込まれたのか。
 
「心技体。何度も何度もその大切さを話してもらいました。技術だけじゃなくメンタルのところ。ミスして追い込まれて、何回も何回も打ちのめされても這い上がる。それができるヤツだけが上に行けるんやと。京都から鹿児島まで行って、心技体を鍛えてもらったおかげで、強くなれた。だから感謝しかないです」
 
 覚悟はしていたが、やはり日々の練習は過酷だったという。そこから得られる充足感、達成感が大きな糧となり、その後の松井の冒険を支えた。
 
「僕だけじゃなく、鹿実で3年間やり通した人間には自負がある。いつでもそこに立ち返れるんですよ。プロになっても、社会に出たとしても、いまのこの苦しみはあの頃に比べたらマシだと。それがずっと根底にあった。どんな辛いことでも我慢できたし、自分を奮い立たせてくれた。南アであそこまで活躍できた、走り切れたのは、鹿実での経験があったから。中3の時に思い描いてた通りになりましたよね。その後の自分を振り返ってみてもそう。海外でプレーするためにも、ワールドカップで活躍するためにも、鹿実に行ってなかったらあそこまでやれてなかったと思いますから」
 
 そのうえで、いまの日本代表にはどこか物足りなさを感じている。「なんでもやってるぞって気持ちのところで、なんかこう、打たれ弱いっていうんですかね。試合を観ててもそういうのはすごく感じます」と語りつつ、「本番ではがっつり、根性みせてほしいですね」とロシア・ワールドカップでの奮起に期待を寄せた。
 
<つづく>
 
取材・文●川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)

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PROFILE
まつい・だいすけ/1981年5月11日生まれ、京都府京都市出身。地元の藤森中から名門・鹿児島実高に越境入学し、メキメキと頭角を現す。3年時には高校選手権で準優勝を果たした。卒業後は京都サンガに入団。世代別代表でも持ち前の技巧とドリブルで存在を示し、2004年アテネ五輪ではナンバー10を背負う。同大会終了後に欧州挑戦をスタート。フランス2部のル・マンでスターダムを駆け上がり、サンテティエンヌ、グルノーブル(ともにフランス)、トム・トムスク(ロシア)、ディジョン(フランス)、スラビア・ソフィア(ブルガリア)、レヒア・グダニスク(ポーランド)と渡り歩いた。2014年春にジュビロ磐田に移籍し、10年ぶりのJリーグ復帰。3年半プレーし、今年8月にふたたび欧州へ旅立ち、現在はポーランド2部のオードラ・オポーレに籍を置く。日本代表では31試合・1得点の記録を残し、2010年南アフリカ・ワールドカップでベスト16進出に、翌年のアジアカップでは優勝に貢献した。Jリーグ通算211試合・25得点(うちJ2は116試合・18得点)。175センチ・68キロ。
公式ウェブサイト=http://matsuidaisuke.jp/
サッカージャンキー=http://soccerjunky.com/

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