なぜ東福岡は伝説の3冠を達成できたのか…名将・志波芳則に問う(前編)

2017年12月27日 川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)

タイムアップのホイッスルが鳴ったら、それは次の戦いの始まり

このインターハイを皮切りに、全日本ユース、選手権を制覇した伝説の“赤い彗星”。3冠の偉業達成からちょうど20年が経とうとしている。(C)SOCCER DIGEST

 国立霞ヶ丘競技場のミックスゾーンは猫の額のような狭さだ。選手たちのロッカールームの前には10段ほどの階段があり、報道陣はその手前で止められる。試合後はじっとそこで、選手が出てくるのを待つしかない。
 
 1995年1月、第75回全国高校サッカー選手権大会準決勝、東福岡は静岡学園と戦い、惜しくもPK戦の末に敗れた。小島宏美、山下芳輝、生津将司、西政治ら、のちにJリーグでも活躍するキラ星たちが鮮烈な攻撃サッカーを展開し、大会を席巻。それでも悲願のファイナル進出は果たせず、誰彼ともなく泣き叫ぶ声が、こちらにまで漏れ伝わってきた。
 
 すると、真っ黒に日焼けしたブラックスーツの人物が階段をゆっくり降りてくる。にっこりと笑って驚きのひと言を発した。
 
「さあさあ、中に入って選手たちを取材してやってください。よくやりましたよ、彼らは。いっぱい話を訊いてあげてください」
 
 志波芳則監督である。当時、45歳。強面な風貌そのままに選手たちには鬼と恐れられるが、我々メディアに対しては常にスマイリーで、温和な紳士だ。いまでも基本的に報道陣と話すときは、敬語を外さない。
 
 日本テレビのカメラならまだしも、他のメディアがロッカールームに入れたのは後にも先にもあの一度きりではなかったか。困惑する警備員や大会関係者を「まあまあ、いいのいいの」と言ってなだめる志波監督。嗚咽を漏らす生津の前にしゃがみこみ、じっくり話を聞いた。思いっきりもらい泣きしたのも、いまとなってはいい思い出だ。
 
 どうして、あそこで報道陣を招き入れてくれたのか。ロッカールームの前で笑みを浮かべ、頷いていたのはなぜか。志波さんに22年越しの質問をぶつけた。
 
「タイムアップのホイッスルが鳴ったら、それは次の戦いの始まり。僕が大好きなデットマール・クラマーさんの言葉でね。だから立ち止まらないし、振り返らない。指導者がそうした気持ちを持っていないと、選手たちは『ここで負けたんだ』という想いを引きずってしまう。終わったら、はい、お疲れさん。だから、報道の方々も待っていたし、すぐに入ってもらった。それもこれも彼らにはいい経験になるはずだから。僕は負けた試合の後はね、一度もその場でミーティングをやったことがない。選手たちは勝っても負けても興奮状態にありますから。そこでああだこうだ言ってもしょうがないんだ。翌朝に朝飯を食いながら、昨日はこうやったねと話すと、シュッと入るものなんです」
 
 当時の先生の年齢にいま、自分がなってみて思う。そんなバランス感覚も人心掌握術も持ち合わせていないと。あらためて、志波芳則が名将たる所以を認識させられた。

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