「中村俊輔をマンマークせよ!」高1の本山雅志はこの難局をどう乗り切ったのか

2017年11月17日 川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)

いいか、どこまでも付いていけと。めっちゃ走りましたよ!

連載『黄金は色褪せない』で数多のレアエピソードを披露してくれた本山。生涯でたった半年だけの「ボランチ時代」を振り返る。写真:筒井剛史

 ゴールデンエイジの面々を一人ひとり訪ね歩く連載シリーズ『黄金は色褪せない』。今回5番手として登場してくれるのは、ギラヴァンツ北九州の名ドリブラー、本山雅志だ。
 
 近日スタートする本編を前に、ここではとっておきのエピソードを先出しでお届けしよう。
 
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 名門・東福岡高校サッカー部に入部した本山雅志は、夏のインターハイ予選を前にしたタイミングで、志波芳則監督(当時/現・総監督)にこう告げられた。
 
「お前、ボランチをやってみんか。やってみい」
 
 あるチーム事情によって急転直下の展開を見せたわけだが、すでに攻撃的なポジションで自慢のドリブルとパスセンスを炸裂させていた逸材は、4-1-4-1システムのアンカーを任されることとなった。「サッカー人生の中であんなに走った1年はないですね」と、38歳になった名手は回顧する。後にも先にもない、"3列目"での貴重な経験だ。
 
 先輩の助けや自身の絶え間ないトライによって、1ボランチのコツを掴みつつあった本山。そして1995年の大晦日、初めて全国高校サッカー選手権の檜舞台を踏む。東福岡の1回戦の相手は、神奈川の新鋭・桐光学園。どうやら2年生の天才レフティーが、ヤバイらしい。
 
 1か月前の組合せ抽選会で対戦が決まってから、本山にはひとつのタスクが与えられていた。思いもよらない、マンマークである。敵の司令塔、中村俊輔を封じ込めというのだ。
 
「シュンさんがすごい選手だってのはなんとなく知ってたけど、そこまで詳しいわけじゃなかった。で、試合ではマンマークで付けと志波先生に言われて、いいか、どこまでも付いていけと。めっちゃ走りましたよ、あの試合は」

次ページずっとキツかったんだけど、すんげー楽しかった

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