ポドルスキの「強み」と「弱み」。輝くために必要なことは?

2017年07月22日 遠藤孝輔

王様として振る舞えたケルンでは極上の輝きを放つ。

神戸に入団したポドルスキ。7月22日の仙台戦(親善試合)でデビューか。写真:佐藤明(サッカーダイジェスト写真部)

 ドイツ、イングランド、イタリア、トルコの4か国で15シーズン目を戦ってきたルーカス・ポドルスキが最も輝きを放ったのは、ケルンに所属した11-12シーズンだ。
 
 4-2-3-1のトップ下もしくはCFを主戦場とし、チーム総得点の46㌫にあたる18ゴール(+7アシスト)を叩き出した。圧巻だったのはその孤軍奮闘ぶり。前シーズンのチーム得点王だったミリボイェ・ノバコビッチがスランプに陥り、相手守備陣の警戒が自身に集中するなかで、何度となく違いを作り出したのだ。
 
 当時のポドルスキが爆発した理由はいくつか考えられる。そのひとつは戦術的な制約の少なさ。当時のストーレ・ソルバッケン監督から攻撃の牽引車となることを求められたポドルスキは、プレッシングサッカーを標榜するチームの中で唯一、囲い込みへの積極参加を求められず、攻撃に全精力を傾けることができた。
 
 ポドルスキ以外で守り、ポドルスキを中心に攻める――。チーム内にこの共通意識が浸透し、稀代のレフティーは伸び伸びとプレーできたわけだ。
 
 トレーニングの"軽さ"も、ポドルスキが年間を通して活躍できた要因と言えるかもしれない。周囲の助言に耳を貸さず、負荷の少ない練習メニューばかりを組んでいたソルバッケン監督の下で、常に良好なコンディションを維持。足を痛めるアクシデントはあったものの、フェリックス・マガト監督に身体を苛め抜かれた末、冬場に腰痛を発症する羽目になったバイエルンでの1年目(06-07シーズン)のようなトラブルには見舞われなかった。翌シーズン、新天地のアーセナルで終盤に息切れしたのは偶然ではないだろう。
 
 いわば王様として振る舞えたケルン時代とは異なり、組織の歯車のひとつになることを求められたバイエルンやアーセナルでは、一度も主役になれなかった。
 
  頻繁に指摘されたのは守備意識の低さで、複数人が絡んだコンビネーションプレーでの崩しが苦手という弱点も露呈。戦術的な約束事や制約が増えると、持てる力をなかなか発揮できないのは現在も変わらない。
 

次ページわがままにプレーさせてこそ真価を発揮する。

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