【広島】悩み抜いた末の中東移籍。シンデレラストーリーを歩んでいた塩谷司に何が起きたのか

2017年06月17日 中野和也

柱谷哲二に塩谷は訴えた。「何でもします。プロになるには、どうすればいいんですか」

水戸でプロとしての一歩を踏み出した2011年当時。塩谷は柱谷監督の下で逞しく鍛え上げられた。写真:上野雅志

 僕は、やさぐれていた――。

 自身の人生を振り返った時、塩谷司が自嘲的に語った言葉である。

 
 国士館大に入った頃、そのレベルの高さに驚いた。「自分は試合に出られない」と諦め、練習に身が入らない。いつしか渋谷や新宿で遊ぶ生活に身を置くようになった。そのまま卒業後はサッカーを諦め、サラリーマンとして生計を立てるんだろうと思っていた。大学2年の時、特別コーチとして指導にやってきた国士館大OBの名選手・柱谷哲二に「ちゃんとサッカーに取り組め。お前には未来がある」と声をかけられた時はモチベーションが上がったが、それも長くは続かなかった。
 
 そんな彼の人生を変えたのが、3年の夏、突如として塩谷家を襲った「父の死」である。国立大学に進学したばかりの弟も、中学生の弟もいる。母の生活のこともある。長男としてとるべき道は、大学をやめ、地元に戻って働くことだ。
 
 そう決意した塩谷を翻意させたのが、当時の監督だった細田三二氏の「大学は続けろ。今やめたら、もったいない。お金のことなら相談に乗る」という電話だった。母も、「あんたが卒業するまで、頑張るから」と言ってくれた。
 
 やるしかない――。
 
 翌年、国士館大監督に就任した柱谷に、塩谷は訴えた。
 「何でもします。プロになるには、どうすればいいんですか」
 「その言葉に嘘はないな」
 「はいっ」
 
 そこから、彼のシンデレラのようなストーリーが展開される。
 
 2011年、プロからはどこからもオファーがなかったが、水戸の監督に就任した柱谷哲二に引っ張られるような形でプロ入り。水戸でいきなりレギュラーを獲得。その身体能力の高さで玄人筋の注目を集めた。
 
 2012年、夏の移籍期間に広島へ。水戸・柱谷監督から森保監督には「塩谷を日本代表に育てろ」というメッセ一ジが届く。11月23日、広島の初優勝を決めたC大阪戦でリベロとして先発。栄光をピッチで味わった。
 2013年、ファン・ソッコとのポジション争いを制し、全試合出場で連覇に貢献。
 2014年、日本代表に初選出。Jリーグベストイレブンに。
 2015年、3度目の優勝に中心選手として大きく貢献。
 2016年、オーバーエイジ枠としてリオデジャネイロ五輪に出場。
 
 まさに順風満帆。彼が年代別代表に選出されなかったことが理不尽に思えるほど、ポテンシャルは十二分に開花していた。

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