レジェンドの軌跡 THE LEGEND STORY――第16回・デサイー(元フランス代表)

2017年02月16日 サッカーダイジェストWeb編集部

違うチームで2年連続での欧州制覇を果たした初めての選手。

代表では最大級の悪夢を味わった93年11月だが、同時期に実現したミラン移籍はデサイーのキャリアを上向かせる大きな分岐点となった。 (C) Getty Images

 本誌ワールドサッカーダイジェストと大人気サッカーアプリゲーム・ポケサカとのコラボで毎月お送りしている「レジェンドの言魂」では、サッカー史を彩った偉大なるスーパースターが、自身の栄光に満ちたキャリアを回想しながら、現在のサッカー界にも貴重なアドバイスと激励を送っている。
 
 さて、今回サッカーダイジェストWebに登場するのは、高い技術、身体能力、インテリジェンスを活かし、最終ラインの分厚く高い壁として君臨したマルセル・デサイーだ。
 
 フランス代表の黄金時代創成に大貢献した他、クラブレベルでも数々の栄光を手にした偉大な男の軌跡を、ここで振り返ってみよう。
 
――◇――◇――
 
 1968年9月7日、ガーナの首都アクラで生まれた時、彼の名前はオデンケ・アベイだったが、母親がフランスの外交官と結婚した際に、現在のマルセル・デサイーに改められた。
 
 4歳の時、彼はフランスのナントに移り住み、この町のプロクラブ、ナントの下部組織に入団。CBとして高い評価を得ていく。ちなみにここで、マルセイユやフランス代表で戦友となるディディエ・デシャンと出会うこととなった。
 
 プロデビューは86年。ファーストシーズンで13試合に出場した彼は、3年目からは不動のレギュラーとしてナントの最終ラインに君臨するようになる。そして91-92シーズンを終えた後、マルセイユへ移籍した。
 
 当時のマルセイユといえば、実業家ベルナール・タピの経営下でチームは強化され、欧州ではビッグネーム揃いのミランと双肩を成す存在でもあった。
 
 そしてデサイーが加入した92-93シーズンは、リーグアンでは5連覇、チャンピオンズ・リーグ(CL)ではミランを決勝で下しての初欧州制覇を達成。クラブにとっても、デサイーにとっても喜びに満ちたシーズンとなるはずだった。
 
 しかし、間もなくして八百長が発覚、フランス・サッカー界を揺るがすスキャンダルに発展し、マルセイユはリーグアンの優勝を取り消され、欧州王者としてトヨタカップに出場する権利も剥奪された……。
 
 マルセイユで多くのタイトルを獲得するはずだったデサイーは、在籍2シーズン目の93年11月、早くもこのクラブを去る。新天地は、前シーズンでCL初代王者の座を決勝で争ったミランだった。
 
 シーズン途中の加入だったが、デサイーはいきなりチームに欠かせない存在となる。当時、ミランは長く君臨したオランダ・トリオ(ルート・フリット、マルコ・ファン・バステン、フランク・ライカールト)が解体され、弱体化が懸念されていた。
 
 ここでデサイーは守備的MFとして、ライカールトの抜けた穴を埋める活躍。ミランのセリエA3連覇に貢献した他、圧倒的不利といわれたバルセロナとのCL決勝では、相手の息の根を止める4点目のゴールを決めてみせた。
 
 異なるチームで2年連続での欧州制覇を成し遂げたのはデサイーが初めてであり、彼は永遠にサッカー界の歴史にその名を刻むこととなった。
 
 95-96シーズンに自身2つ目のスクデットを獲得したデサイーだが、翌シーズンからミランは低迷期に入り、以降はタイトルに恵まれず。そして98年、彼は460万ユーロの移籍金を置き土産にミランを去り、イングランドに向かった。
 
 95年のボスマン裁定以降、真っ先に多国籍チームを作り上げたりするなど、革新的なクラブとして注目されていたチェルシーに加入したデサイーは、当時、ジャンルカ・ヴィアッリがプレイングマネジャーを務めていたチームで1年目から不動のレギュラーとして最後尾に陣取った。
 
 フランス代表のチームメイトでもあるフランク・ルバフとのCBコンビは堅固さを誇ったものの、在籍6年間においてリーグタイトルを獲得することはできず、98年にUEFAスーパーカップ、99-2000シーズンにFAカップ、00年にチャリティーシールドを制するに止まった。
 
 高い身体能力を活かしたプレーはもちろん、足元の技術にも秀で、さらに戦術理解度も高かったデサイーは、長く欧州のトップシーンに君臨してきたが、04年に中東カタールでのプレーを選択し、ここで2シーズンを過ごした。

次ページレ・ブルーの不動のCBとして黄金時代の創成に大きく貢献。

みんなにシェアする
Twitterで更新情報配信中

関連記事