【日本代表】小林祐希の原点<2> 天才少年の心に響いたヴェルディの本物志向と殺気立つほどの…

2016年11月10日 加部 究

諸手で歓迎の意を表わしたFC東京と自己責任での競争参加を提示した東京V。

後にヴェルディで盟友となる高木善朗との競り合い。小学校時代の東京トレセンでのゲームで。写真提供:小林拓也

「あの天才少年、なんていう名前でしたっけ?」
 
 取材で対面している都並から、そう聞かれたのは、シドニー五輪から4年後のことだった。

「その子、ウチ(東京ヴェルディ)が獲りに行っていますよ」
 
 祐希は小学6年生になっていた。 ちょうど東京ヴェルディ(以下、東京V)と同時に、FC東京むさしも獲得の意思を伝えてきた。 FC東京U-15 は、それまで深川で活動してきたが、小平市に「むさし」を新設したばかりで、挨拶に来たのは当時育成責任者の城福浩だった。

「間違いなく、6年後にはプロにします」
 
 そう力説する城福は、やがてU-17日本代表監督を経て、トップチームの監督に就任していく。
 
 一方で東京Vは、対照的にシビアな現実を突きつけた。

「もし中学3年間取り組んでみて、サッカーに向かないと判断すれば、別の道に進むように指導します」
 
 FC東京むさしなら自転車で通える。父・拓也は「そのほうがいいだろう」と勧めた。しかし祐希が選択したのは、諸手で歓迎の意を表わしたFC東京むさしではなく、自己責任での競争参加を提示した東京Vのほうだった。もちろん判断の基準は、担当者の挨拶だけではなかった。
 
「夏には東京トレセンで埼玉国際に出場し、優勝しています。このチームにはのちに東京Vに進む仲間が6~7人いたので、また一緒にやりたい気持ちもありました」(拓也)
 
 東京都第4地域(当時)から東京都トレセン(男女共通)に選ばれたのは、祐希と岩渕真奈(現バイエルンL)だけだった。ちなみに埼玉国際決勝で対戦したのは青森トレセンで、祐希より20センチ近くも大きかった柴崎岳(現・鹿島)が身体能力、技術ともに抜けていたという。
 
「それに東京Vジュニアユースの菅澤大我監督の言葉も新鮮に響いたようです。練習に通う時なども、ジャージではなく、お洒落にも気を遣えるような人間になれ、と。そんなことは他で言われたことがなかったですからね」(拓也)
 
 それは連綿と引き継がれる"ヴェルディ主義"と言えるかもしれない。 かつてユース日本代表を指導した小見幸隆は、タイ遠征中の食事の席で「僕は何でも食べられます!」と宣 言した選手を、逆に突き放した。

「だからおまえのサッカーはダメなんだ。それはおまえの健康のためにはいいよ。でも食事や女にこだわりのないヤツは、サッカーにもこだわりを持てない」

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