レジェンドの軌跡 THE LEGEND STORY――第9回・ジェラード(ロサンゼルス・ギャラクシー/元イングランド代表)

2016年11月04日 サッカーダイジェストWeb編集部

印象的なゴールを決め続け、愛するクラブを欧州の頂点へ導く。

プレーも、喜び方もダイナミック! そんなジェラードをリバプール・ファンは愛し続けた。  (C) Getty Images

 本誌ワールドサッカーダイジェストと大人気サッカーアプリゲーム・ポケサカとのコラボで毎月お送りしている「レジェンドの言魂」では、サッカー史を彩った偉大なるスーパースターが、自身の栄光に満ちたキャリアを回想しながら、現在のサッカー界にも貴重なアドバイスと激励を送っている。
 
 今回登場するのは、ダイナミックさと緻密さを兼ね備えたリバプールのレジェンドであり、2000年代のイングランド代表の中盤に不可欠な存在だったスティーブン・ジェラードだ。
 
 母国ではリバプールひと筋のキャリアを貫き通し、アメリカ大陸でもその熱いプレーを披露してきた男の偉大なる足跡を、ここで振り返ってみよう。
 
――◇――◇――
 
 イングランドが10年ぶりのメジャーイベントとなる欧州選手権(イタリアで開催)を目前に控えていた1980年5月30日、マージーサイド州のウイントンという町で、スティーブン・ジェラードは生まれた。
 
 この国の多くの子どもと同じように、幼少の頃からストリートサッカーに明け暮れた彼は、地元のチームで才能の一端を見せ付け、9歳の時にリバプールのアカデミーに入団する。
 
 9歳といえば、イングランド・サッカー史上最悪の事故となった「ヒルズボロの悲劇」が起きた時であり、彼はひとつ年上の従兄弟を失っている。この悲劇は、その後のジェラードのキャリアに大きな影響を与えていくこととなった。
 
 リバプールの下部組織で順調に成長を遂げていったジェラード少年だが、そのあいだにライバルであるマンチェスター・ユナイテッドの入団テストを受けたというエピソードは有名である。
 
 しかし、ジェラードはリバプールに留まり、97年にプロ契約を勝ち取り、98年11月29日のブラックバーン戦で、ジェラール・ウリエ監督によって登用され、デビューを果たした。
 
 早くからシュート、パスに非凡な才能を見せる一方で、強烈なタックルで相手からボールを奪い取る守備でも脚光を浴びた駆け出しのジェラード。中盤を主戦場としながらも、状況に応じてSBとしてプレーすることにも何ら抵抗はなかった。
 
 3年目の2000-01シーズン、公式戦15試合でスタメン出場を果たし(出場数は46試合)、10得点を記録して、リバプールの三冠(FAカップ、リーグカップ、UEFAカップ)に貢献すると、一気にチームでの存在感と価値を高め、03-04シーズンには早くもキャプテンの任を与えられる。
 
 その座を明け渡したサミ・ヒーピアですら、「ジェラード以上にリバプールのキャプテンに相応しい選手はいない」と語るほど、すでにこの23歳のMFはクラブの象徴的存在となっていた。
 
 中盤でゲームを創り、味方にチャンスを提供しながら、持ち前のシュート力と決定力で勝敗をも左右する彼には、チェルシー、レアル・マドリーといったビッグクラブへの移籍の噂がたびたび付きまとったが、残留の意思を示すたびに、リバプールとの絆は強まっていった。
 
 敗色濃厚のアディショナルタイムに地を這う強烈なロングシュートをボレーで突き刺した05-06シーズンのFAカップ決勝(ウェストハムにPK戦の末に勝利)など、クラブ史に残る印象的なゴールを多く決めてきたジェラードだが、05年5月、トルコ・イスタンブールで放った一撃の価値は桁違いだった。
 
 ミランとのチャンピオンズ・リーグ決勝、前半で0-3とリードされ、早くも失望のムードに包まれていたチームに希望の光を差したのは、54分のジェラードのヘッド弾。この、よくコントロールされた一撃が、奇跡の同点劇を演出し、PK戦での勝利を生み出したのだ。
 
 リバプールに21年ぶりとなる欧州王者の称号をもたらしたジェラード。この時、彼はキャリアの絶頂を迎えた。

次ページ手が届きそうで届かなかったリーグ優勝、代表でのタイトル…。

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