【広島】あの名手から受け継いだ「7番」。森﨑浩司はいかにして伝説となったのか

2016年10月21日 中野和也

もし、あの難病との戦いがなかったら…。

今季限りでの現役引退を表明した森崎浩。ユース時代から数えて20年間を広島ひと筋で貫いた。(C) J.LEAGUE PHOTOS

 広島にとっての「7番」は、特別だ。外国人選手が背負った1998年をのぞき、7番を身につけたのはたった2人の選手だけ。ひとりが現監督の森保一。そしてもうひとりが、森崎浩司である。
 
 日本のサッカーファンにボランチの重要性を知らしめた名選手=森保一の7番を受け継ぐことになった2002年、森崎浩はその重みを肩にズシリと感じた。無理もない。誰もが認めるテクニシャンではあったが、それまでの2シーズンでのリーグ戦出場はわずか2試合。前年の福岡戦で直接FKも含む鮮烈な2得点を決めてはいたが、故障がちだったこともあり、偉大なる森保の番号を引き継ぐにはまだ期待先行の色合いが強かったからだ。
 
 それから15年。広島の7番に守備のイメージは浮かばない。ルヴァンカップG大阪戦でも力を見せつけたクラブ史上最高のフリーキッカー。2007年天皇杯の対磐田戦では1試合2発のFKゴールを叩き込んで、1週間前の「降格ショック」を振り払った。
 
 2008年のJ2時代、広島オリジナル・システム開発の中心として14得点・7アシストの活躍を見せ、創始者であるペトロヴィッチ前監督(現浦和)から「シェフ」と称えられた。
 
 特にシステム初戦となった徳島戦で7番が放ったふたつのゴールは、驚愕のコンビネーションから生まれたビューティフルな軌跡を描き、チームの希望となった。2011年の対鹿島戦では2本の強烈なミドルシュートを突き刺して左足の破壊力を見せつけ、個の力も証明している。
 
 J1で放った40得点はMF登録選手としてはクラブ最多であり、J2での24得点も含めた64ゴールは、そのほとんどが美しく、気高く、爆発的。茶目っ気に溢れた少年のような雰囲気を持つ一方で、創造力と発想力に長け、90分を計算に入れたゲームバランスの構築ができるクレバーな感覚を持っていた。
 
 だからこそ、いつも思う。もし彼が、人生そのものを失う危機にまで追い詰められた「オーバートレーニング症候群」との戦いがなかったら、と。日本代表で活躍しても全くおかしくないクオリティ。それは李忠成や西川周作ら、かつて広島でともにプレーした選手たちが口々に証明している。
 
 2008年から2014年まで断続的に続いた難病との熾烈な戦い。もっとも脂が乗ってくる20代後半を病との闘いに費やさざるを得なかったその運命を、呪いたくもなる。ただ、普通の生活が送れないほどの苦しさを跳ね返して2012年の初優勝に大きく貢献したことは、サッカー史に残る偉業。想像を絶する厳しい戦いと正面から向き合い、戦い、ピッチに立つ。その7番の姿にサポーターは共感し、拍手を贈った。
 

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