生まれも育ちもLA。異色のルートで手繰り寄せた日本代表入り。若き守護神・村松秀司が歩んだ軌跡【独占インタビュー前編】

2025年12月23日 松尾祐希

“村松”を名乗ってプレーできる喜び

今秋のU-17W杯で活躍した村松。将来が嘱望されるGKだ。写真:松尾祐希

 生まれも育ちもロサンゼルス。異国の地でキャリアを歩んできた選手がいる。今秋のU-17ワールドカップで背番号1を託され、日本のキャプテンとして目覚ましいプレーを見せたGK村松秀司だ。

 ロサンゼルスFCのアカデミーで技を磨き、昨秋には16歳でBチームに昇格。フィジカルの強さを活かしたシュートストップと、圧倒的なリーダーシップで評価を高めてきた。その一方で日本でのプレー経験はなく、初めてナショナルチームを経験したのもアメリカだった。そんな男はいかにして日の丸を背負う選手に成長を遂げてきたのだろうか。

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 2008年6月8日。アイルランド系アメリカ人の父と日本人の母のあいだで"Ethan Scally"こと村松秀司は生を受けた。子どもの頃から活発で様々なスポーツに触れてきたという。

「水泳、テニス、野球、アメフト。本当にいろんなスポーツをやっていましたね」

 そのなかでサッカーを本格的に始めたきっかけは、「トライアウトを受けてみたら?」という母の誘いだった。近くのクラブに赴くと、見事に合格した。

「自分の家族も驚いたんですけど、本当にやりたいのかを聞かれて『やりたい』と伝えたら『入っていいよ』と言われたんです」

 村松が8歳の時だった。

 サッカーを始めてから、遊びではSBなどをやったこともあったが、ポジションはGK一筋。最後尾から仲間を鼓舞しながら幾度となくピンチを救ってきた。「最初はゴールを取りたい」という気持ちもあったが、GKの面白さに目覚めた村松は、恵まれた体格を武器としたプレーでメキメキと頭角を現していく。
 
 12歳からはロサンゼルスFCの育成組織に身を置き、さらなる成長を目ざして鍛錬を積んだ。すると、15歳の時にU-15アメリカ代表から声がかかる。しかし、そこでは思うようなプレーができず、悔しい想いを味わった。

 その後はアメリカ代表に招集されなかったが、村松には一つの想いがあった。日本代表でプレーしたい。その気持ちを誰よりも強く持っていた。

 そこで村松は動く。もともとは大学進学のために自身のプレー集を自ら制作していたなかで、その動画をクラブスタッフの紹介で日本サッカー協会のスタッフに送るようになった。何度か続けていると、ついにその時が訪れる。25年秋のU-17ワールドカップを目ざすチームで招集された。昨年12月のことだった。

「嬉しさはちょっと伝えられないくらいで、言葉にできないほどの喜び。やっと日本代表まで来られたし、同時にここで終わってはいけないという気持ちもありました。そして、代表のユニホームで"村松"の名前を名乗ってプレーできる喜びとプライドもあって、代表のエンブレムを背負って戦える気持ちは本当に言葉にできません」

"初代表"の嬉しさを噛み締めながら、臨んだスペイン遠征。初めて日本の選手たちと顔を合わせたのはもちろん、日本人だけのチームでプレーするのも初めてだった。日本語での会話は問題ないが、細かいニュアンスなどは難しかった。そのため、コミュニケーションで苦労する時もあった。それでも、村松は持ち前のハートの強さを示し、仲間たちと同じ時間を共有するなかで理解を深めていく。

「選手の名前を覚えるのが大変だった、緊張し過ぎていて、コミュニケーションもうまく取れなかった。でも、少しずつ名前を覚えて、コミュニケーションでも選手の特徴を覚えながら、ポイントを押さえて理解できるようになったと思う」
 

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