家族で住む家は転々と引越しを繰り返したが、「ゴール」だけはいつもそこにあった
静岡市民サッカーショップの聖地としてオープンする「GOAL BASE 静岡」。
僕は静岡で生まれて静岡で育った。
18歳まで静岡しか知らず、気づけばサッカーに没頭していた。
「サッカー王国 静岡」と呼ばれていたが、いまやJリーグが発足して全国的にサッカーが普及されると同時にネット配信が普及。日本各地でサッカー熱が高まるとともに世界のサッカーがオンタイムで見られる環境が整備され、日本でいう「サッカー王国」とは何か? 何をそう言っていたのか? が分からなくなってきた。
18歳まで静岡しか知らず、気づけばサッカーに没頭していた。
「サッカー王国 静岡」と呼ばれていたが、いまやJリーグが発足して全国的にサッカーが普及されると同時にネット配信が普及。日本各地でサッカー熱が高まるとともに世界のサッカーがオンタイムで見られる環境が整備され、日本でいう「サッカー王国」とは何か? 何をそう言っていたのか? が分からなくなってきた。
全国各地のレベルは接近していき、どのレベルも良い選手が分散することになった。
高校サッカー選手権で必ず静岡は決勝に出て、予選のレベルは全国を勝ち抜くよりも大変。そんな環境だった静岡県予選。
全国で少年のサッカー人口が1番だったのか? 幼児期からサッカーをやる子が町にたくさんいるからなのか?
日本代表選手もJリーグになる選手も(当時であれば最高カテゴリーJSL)1番多く輩出してきたからか。
街のお母さんもリフティングができる…サッカー最中がお土産で売っている。子供から大人までサッカーが好きなのか?
思い返せば、やはり静岡は「サッカー王国」であり、それは高校サッカーで全国優勝が簡単に出来なくなっても…ユース年代でプレミアリーグ優勝が出来なくても…日本代表に静岡出身選手が減っていても…Jリーグの清水エスパルスが残留という目標達成でホッとしていたとしても…ジュビロ磐田がJ2でも苦戦してプレーオフギリギリを争うクラブだったとしても。
やはり静岡の「サッカー文化」は違う!と僕は思う。
そしてまた静岡が「サッカー王国」だと言われる日が必ず来る、と思っている静岡の人は僕だけでなく、たくさんいるのではないであろうか…。
その大昔。僕が生まれる前から静岡にサッカーを根付かせようとしている人達がいた。
そのひとりに僕の亡き父がいた。60年以上前に静岡に日本で初のサッカー専門ショップ「ゴール」をオープンさせたのが父だった。
そして静岡にサッカーを流行らせるために学校の校庭にナイター設備をつける動きを高校の先輩、堀田哲爾さんと行なった。
どの少年団も「ゴール」で作ったユニホームを着ていて、背番号はお店で発着する。
僕が生まれてくるタイミングに合わせて「サッカーショップ ゴール」を立ち上げた。
僕と弟のカズはそのサッカーショップとともに育ったと言っても過言ではない。
そのユニホームの貼り付けをカズが手伝っていたというエピソードもある。家族で住む家は転々と引越しを繰り返したが、「ゴール」だけはいつもそこにあった。
そしてそこに行けば世界中のサッカー用品を見ることができた。父と叔父さんが行った1970年・80年代のワールドカップのお土産が飾ってある。74年は西ドイツ、78年はアルゼンチン、82年はスペインと各国の応援グッズや、その時代のシャツやスパイク、キーホルダーなど、そしてカズがブラジルに渡ってからは、ブラジルの手に入らないグッズなど…。
少年の僕にとっては、まさしく秘密基地のような場所であった。「サッカーショップ ゴール」は父が作り、叔父さんの故納谷義郎氏が守り続けたが、時代が変わり、数年前に立ち退く形になった。
それから、また数年が経ち、そんな大事な場所があった人宿町、七間町で町興し、地域活性化に務める方と偶然に知り合うことになった。
高校サッカー選手権で必ず静岡は決勝に出て、予選のレベルは全国を勝ち抜くよりも大変。そんな環境だった静岡県予選。
全国で少年のサッカー人口が1番だったのか? 幼児期からサッカーをやる子が町にたくさんいるからなのか?
日本代表選手もJリーグになる選手も(当時であれば最高カテゴリーJSL)1番多く輩出してきたからか。
街のお母さんもリフティングができる…サッカー最中がお土産で売っている。子供から大人までサッカーが好きなのか?
思い返せば、やはり静岡は「サッカー王国」であり、それは高校サッカーで全国優勝が簡単に出来なくなっても…ユース年代でプレミアリーグ優勝が出来なくても…日本代表に静岡出身選手が減っていても…Jリーグの清水エスパルスが残留という目標達成でホッとしていたとしても…ジュビロ磐田がJ2でも苦戦してプレーオフギリギリを争うクラブだったとしても。
やはり静岡の「サッカー文化」は違う!と僕は思う。
そしてまた静岡が「サッカー王国」だと言われる日が必ず来る、と思っている静岡の人は僕だけでなく、たくさんいるのではないであろうか…。
その大昔。僕が生まれる前から静岡にサッカーを根付かせようとしている人達がいた。
そのひとりに僕の亡き父がいた。60年以上前に静岡に日本で初のサッカー専門ショップ「ゴール」をオープンさせたのが父だった。
そして静岡にサッカーを流行らせるために学校の校庭にナイター設備をつける動きを高校の先輩、堀田哲爾さんと行なった。
どの少年団も「ゴール」で作ったユニホームを着ていて、背番号はお店で発着する。
僕が生まれてくるタイミングに合わせて「サッカーショップ ゴール」を立ち上げた。
僕と弟のカズはそのサッカーショップとともに育ったと言っても過言ではない。
そのユニホームの貼り付けをカズが手伝っていたというエピソードもある。家族で住む家は転々と引越しを繰り返したが、「ゴール」だけはいつもそこにあった。
そしてそこに行けば世界中のサッカー用品を見ることができた。父と叔父さんが行った1970年・80年代のワールドカップのお土産が飾ってある。74年は西ドイツ、78年はアルゼンチン、82年はスペインと各国の応援グッズや、その時代のシャツやスパイク、キーホルダーなど、そしてカズがブラジルに渡ってからは、ブラジルの手に入らないグッズなど…。
少年の僕にとっては、まさしく秘密基地のような場所であった。「サッカーショップ ゴール」は父が作り、叔父さんの故納谷義郎氏が守り続けたが、時代が変わり、数年前に立ち退く形になった。
それから、また数年が経ち、そんな大事な場所があった人宿町、七間町で町興し、地域活性化に務める方と偶然に知り合うことになった。