父の法要を済ませたなか、僕の還暦のお祝いはいまだ終わらず…
父の法要の際に家族で撮った一枚。写真:ヤナガワゴーッ!
2023年9月8日、金曜日。
父が僕らの前からいなくなった。
先日、丸2年が経ち三回忌を迎え、1週間前に法要を済ませた。
当日、静岡へお墓参りへと、今、住む鈴鹿のアパートから朝、5時に起きて近鉄、東海道新幹線を乗り継ぎ、実家のある静岡駅に到着。すると、82歳になった母親が頼んでもいないのに駅に車を横付け、待っていてくれた。
いなくなった――と表現したが、まだ親父は何処かにいる。
父が僕らの前からいなくなった。
先日、丸2年が経ち三回忌を迎え、1週間前に法要を済ませた。
当日、静岡へお墓参りへと、今、住む鈴鹿のアパートから朝、5時に起きて近鉄、東海道新幹線を乗り継ぎ、実家のある静岡駅に到着。すると、82歳になった母親が頼んでもいないのに駅に車を横付け、待っていてくれた。
いなくなった――と表現したが、まだ親父は何処かにいる。
60歳になる僕が1週間前に静岡で法要を終えているのに、また会いに来る。僕だけではなく、たくさんの人の心に親父はまだ存在しているのだと思う。
以前、このコラムで還暦のことに触れさせてもらったが、還暦はまだ終わっていない。
60歳(7/15誕生日)になる前、少しフライング気味(7/10)に鈴鹿の友人たちが誕生日前に還暦のお祝いも兼ねて祝ってくれた。鈴鹿の「夢」へ向かい、共闘してくれる仲間達を皮切りに。
9月に入っても「やっさん還暦のお祝いを僕もやらして下さい」と、なんと10回以上。
還暦と言ってもピンと来なかったが、60歳になる年を還暦と言うらしいが、こんなにたくさんの人たちが気にしてくれるものだとは思ってもいなかった。
この日、父の命日には名古屋の友人達が3回に渡り違うメンバーで還暦を祝ってくれた。これで合計12回も祝ってもらったことになる。
祝ってくれる人たち、一人ひとりの笑顔、「やっさん還暦なんだー」と僕より若い、これからを背負うであろう人達のパワー溢れる嬉しそうな顔。
僕より年上の人達は「ヤスも60歳か」と何か嬉しそうな笑み(笑)。仲間入りを祝うかのような…。
僕は勝手に「ヤスさん! まだまだこれからですよ! 頼みますよ!」と言われてると解釈している。今の時代の還暦は、まだまだ若い!これからだ!という事だろう。
仲間たちが開いてくれた一つひとつの還暦のお祝いに感謝している。
親父は55歳の時にロサンゼルスで肝臓移植という生死を賭けた大手術をした。まだ日本で移植が認められていない頃だ。その時の手術をしたドクターは長くて20年と言った。それを上回る81歳まで25年以上、親父は強く生きた。
その手術の7年前(記憶では)。ブラジル、サンパウロ で食道静脈瘤破裂で危篤。聞かされた僕とカズは読売クラブのトレーニングを休みサンパウロ に渡った。昨日のように思い出す。
その後に日本で腎臓移植も行った。京都で親父の妹の腎臓をもらった。脈が落ち、心臓にペースメーカーを入れていた。
それでも周囲に対して、何事もなかったかのように振る舞う親父。その存在は大きかった。
まさか、が起こった。親父は僕に生き様を教えてくれ、癌を通告されてから3か月間、僕に死に様のようなものを見せてくれた。
僕は両方を教わった。どう生きて、どう退くかを…。
以前、このコラムで還暦のことに触れさせてもらったが、還暦はまだ終わっていない。
60歳(7/15誕生日)になる前、少しフライング気味(7/10)に鈴鹿の友人たちが誕生日前に還暦のお祝いも兼ねて祝ってくれた。鈴鹿の「夢」へ向かい、共闘してくれる仲間達を皮切りに。
9月に入っても「やっさん還暦のお祝いを僕もやらして下さい」と、なんと10回以上。
還暦と言ってもピンと来なかったが、60歳になる年を還暦と言うらしいが、こんなにたくさんの人たちが気にしてくれるものだとは思ってもいなかった。
この日、父の命日には名古屋の友人達が3回に渡り違うメンバーで還暦を祝ってくれた。これで合計12回も祝ってもらったことになる。
祝ってくれる人たち、一人ひとりの笑顔、「やっさん還暦なんだー」と僕より若い、これからを背負うであろう人達のパワー溢れる嬉しそうな顔。
僕より年上の人達は「ヤスも60歳か」と何か嬉しそうな笑み(笑)。仲間入りを祝うかのような…。
僕は勝手に「ヤスさん! まだまだこれからですよ! 頼みますよ!」と言われてると解釈している。今の時代の還暦は、まだまだ若い!これからだ!という事だろう。
仲間たちが開いてくれた一つひとつの還暦のお祝いに感謝している。
親父は55歳の時にロサンゼルスで肝臓移植という生死を賭けた大手術をした。まだ日本で移植が認められていない頃だ。その時の手術をしたドクターは長くて20年と言った。それを上回る81歳まで25年以上、親父は強く生きた。
その手術の7年前(記憶では)。ブラジル、サンパウロ で食道静脈瘤破裂で危篤。聞かされた僕とカズは読売クラブのトレーニングを休みサンパウロ に渡った。昨日のように思い出す。
その後に日本で腎臓移植も行った。京都で親父の妹の腎臓をもらった。脈が落ち、心臓にペースメーカーを入れていた。
それでも周囲に対して、何事もなかったかのように振る舞う親父。その存在は大きかった。
まさか、が起こった。親父は僕に生き様を教えてくれ、癌を通告されてから3か月間、僕に死に様のようなものを見せてくれた。
僕は両方を教わった。どう生きて、どう退くかを…。