「このままでいいのか」と自問自答の日々。セルティックでぶつかった壁。純粋にサッカーがしたかった【岩田智輝 1万字インタビュー#2】

2025年06月06日 元川悦子

「もっとできたのかなとは正直、感じます」

セルティック時代を振り返った岩田。写真:元川悦子

 2022年JリーグMVPという輝かしい称号を引っ提げ、23年1月にセルティックへ赴いた岩田智輝。その時点では、古橋亨梧(現レンヌ)を筆頭に、前田大然、旗手玲央(ともにセルティック)、小林友希(現ポルティモネンセ)と日本人選手が4人もいたこともあり、現地適応はスムーズだった。

「大然の隣の家に住んでいて、家族ぐるみで仲良くしていたので、本当に生活面はすぐに慣れました。お互いの子どもたちも仲が良くて、バーミンガムに引っ越してからは、ウチの子どもたちも向こうの子どもたちのことを恋しがっていましたね」と岩田は言う。

 当時の指揮官も横浜F・マリノス時代に師事したアンジェ・ポステコグルー監督だったため、岩田のマルチな能力をよく理解しており、途中出場が中心だったが、ボランチやインサイドハーフ、最終ラインなど幅広く起用してくれた。

 しかしながら、その恩師が23年夏に去り、ブレンダン・ロジャーズ監督が後を引き継いでからは、岩田の立ち位置がやや厳しくなったのは確かだろう。

「ロジャーズ監督はスコットランドでは有名な指導者でしたけど、僕は全然知らなかったので、最初は『どんな人なんだろう』と思っていました。

 実際にチームが始動して、やろうとしているサッカーは面白かった。でも自分をうまくアピールしきれない部分がありました。同じポジションにカラム・マクレガーという絶対的な選手がいたのもありましたけど、もっとできたのかなとは正直、感じます」と本人も悔しさをにじませる。

 23-24シーズンの序盤はチャンピオンズリーグにも出場。「僕にとってCL出場は大きな夢。セルティックにいればそのチャンスがある」と移籍当初に語っていたが、9月のフェイエノールト戦で初めて大舞台に立った時には「ピッチでアンセムを聞いた時には感動しました」とも話していた。
 
 けれども、その後は出番が思うように増えていかない。古橋や前田が実績を残すなか、不完全燃焼感を覚えるのもよく理解できるところだ。

「前線の選手なら明確に数字が出ますけど、僕の良さは対人の強さやボールを奪うところですよね。それがセルティックだと発揮しづらくなってしまうんです。スコットランドで圧倒的な強さを誇るチームは、常にボールを持って主導権を握っている。攻撃面に集中できたことはポジティブに捉えるべきですけど、僕はストロングをあまり出せないし、出番も増えない。スコットランド1部はレベル的にも欧州5大リーグに比べると少し下がるので、自分としてはやはり難しい環境だなと感じることが多かったですね」

 岩田が苦境に直面する傍らで、古橋や前田、旗手はコンスタントに活躍していた。特に前田は日本代表にも常時呼ばれ、確固たる地位を築いていた。

「亨梧君と大然と怜央は、スコットランドで頭1つ抜けていました。日本代表でも主力で活躍できるなとずっと思っていましたね。

 怜央なんかは2024年のアジアカップでスタメンで出て、良い仕事をしたこともありましたけど、ホントに違いを作れる選手だなとしみじみ感じた。彼らに比べると、やはり自分は実力不足でしたね。短い時間でも出た時に毎回点を取っていれば、状況も変わっていたと思う。19試合出場という結果を真摯に受け止めています」と岩田はしみじみと言う。

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