北米で現役を終えた日本人指導者はいかにして、世界を股にかける“育成の敏腕”へと進化を遂げたのか「森保さんと共に徹夜しながら…」【現地発】

2025年04月05日 中田徹

STVV育成部長、高野剛インタビュー【前編】

FAおよびUEFAのプロライセンスを持つ高野氏。今回ロングインタビューに応じ、激動の指導キャリアを振り返ってくれた。写真:中田徹

「日本人選手の欧州への登竜門」として知られるシント=トロイデン(以下STVV/ベルギー)には、もうひとつ別の顔がある。それはアカデミーで育てたタレントたちを、戦力として積極的にトップチームに引き上げる「育成型クラブ」であるということ。現在のSTVVは日本人とベルギー人の混成チームだ。
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 先日、日本のテレビ局が同クラブを取材した際、STVVのアカデミーからトップチームに昇格したヒューゴ・ランボッテ(18歳/DF)は、「セカンドチームの監督から何を教わりましたか?」と訊かれて「規律を学びました」と答えていた。映像を見ながら高野剛は「たしかに俺、そのことをめちゃくちゃ言ってるな。セカンドチームの選手たちの間では『高野=規律』という図式が出来上がっているんだな」と感じていた。

 これまでアメリカ、日本、イングランド、タイで活躍し、現在はベルギーで辣腕を振るう。その『規律の高野』の原点はアメリカにあった。

 1991年に東海大五高校(現東海大福岡高校)を卒業した高野は、アメリカに留学した。叔母が国際結婚していたこともあり、英語が身近な環境で育ち、子どもの頃から「将来はアメリカに行って英語を学ぶんだ」と夢見ていた。だからアメリカ留学は純粋に語学のため。サッカーとは無縁のはずだった。それでもシアトルの語学学校に通っているうちに交流の輪は広がっていき、サッカーをする場も得た。そんな折り、高野はスカジット・バレー大学の卒業生と会った。

「君、サッカーうまいね。うちの大学はオープンに練習参加できる日があるから、行ってみたら?」ということで練習に行ったところ、監督からトライアウトに誘われ、これに合格した。

「ひとり、特待生もいたんだですが、彼も一応、トライアウトを受けないといけなかった。『コイツはうまいから潰せば受かる』と思って、ファウル気味でしたがバチバチ行きました。彼は『お前はしつこくて大変だった』と言ってましたが、そういうところを監督が気に入ってくれたようです。持久走も私が一番でした」

 語学学校を卒業するまであと1コマ残っていたが、相談すると「TOEFLの得点は大学に入学できるレベルに達しているし、チャンスがあるんだから」と背中を押してくれた。
 
 高野はサイドバックだった。

「持久力は1500mを4分15秒で走った。100m走も11秒くらいでした。アメリカの選手は身体能力が高い選手が多かったが、守備でも負けなかった。『コイツは走れて、守れて、クロスができるし頑張り屋さんだ』と評価されました。10番のポジションをやったこともありました。日本人は小回りがきくので、外国人が一歩踏む間に僕たちは2歩踏める。それがウケたんだと思います。主に戦うところはサイドバックでした」

 スカジット・バレー大学は2年制だった。「ここを卒業したら4年制大学に編入したいな。サッカーでなんとかならないかな」と高野は考えていた。チームメイトに日系人のケビンがいた。セントラル・ワシントン大学の監督は最初、ケビンに注目していた。しかし「もうひとりのアジア人も面白そうな選手だ」と高野のことも練習参加に招く。その結果、「お前も入部してほしい」と4年制のセントラル・ワシントン大学に進学することになった。

 セントラル・ワシントン大学のあるエレンズバーグから車で30分のところにヤキマという小さな町がある。そこのクラブはアメリカの3部リーグに所属していた。ヤキマのアシスタントコーチが監督に「面白い選手がいる」と高野のことを伝え、彼はこのチームでもプレーするようになった。

「しかもアメリカはシーズン制なので、3部リーグは春から夏、大学リーグは夏から秋と、時期が被らないから掛け持ちしてプレーできるんです。この時期にシアトル・サウンダーズの監督から誘いを受けて、大学を卒業後は翻訳会社に就職して働きながら、サウンダーズのセカンドチームで活動しました。ここまでが私のプレー経験です。1997年から木下桂がトップチームでプレーしてました。川崎製鉄(現ヴィッセル神戸)でプレーしていた選手です。彼が日本人初のアメリカでプレーしたプロサッカー選手です。私は98年と99年です」

 毎朝4時半に起きて2時間かけてクラブに行き、9時から11時まで練習。そこから翻訳会社に行って仕事をした。

「毎日、こういう生活をしていたら、車は壊れてしまうし、僕の身体も参ってしまってハムストリングを負傷した。クラブから『しっかり治して合流してほしい』と言われたんですが、アメリカのシーズンは短いのでこれは痛い。結局そのままシーズンが終わり、契約をもらえませんでした」

 このとき24歳。身体のこと、スポーツ医学のこと、サッカーの技術のことなど、ありとあらゆることを勉強したりもした。そして完全燃焼した。

「これ以上、自分の身体がパワーアップするのは難しい。そう思った瞬間、『選手としてなんとしても』という執念がなくなってしまったんです。24歳から上達していく選手は多い。しかし私は選手としてやり切った。30歳を過ぎても現役を続ける選手は本当に凄いと思います」

次ページ「選手としての未練は何もなかった。やり切った」

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