私のサッカー人生において最高の栄誉のひとつだ
ウディネーゼの本拠地「フリウリ」を訪れた際に大声援を浴びたジーコ。数十年経ってもウディネの人々の愛情は変わらない。(C)Getty Images
ブラジルの英雄ジーコが、鹿島以外で唯一プレーした国外のクラブがウディネーゼだ。わずか2シーズンの在籍とはいえ、セリエAの黄金期に輝きを放ったレジェンドが、イタリアサッカーへの想いをじっくりと語ってくれた。【インタビュー前編】
―――◆―――◆―――
——あなたは、1983年から85年にかけてウディネーゼに在籍していました。鹿島を除けば、唯一の国外でのプレーでしたね。
たしかにそうだね。当時世界最高峰だったセリエAでプレーできたことは、私のサッカー人生において最高の栄誉のひとつだ。とくに私がプレーしていた時代は、世界中のスターが続々と集結していた。そこでのプレーは、私のキャリアで最大の挑戦であり、まさに夢のような2年間だったよ。
個人的にも一流選手たちと交流を持ち、世界一のリーグを知ることができたのは、大きな財産だった。セリエAは私にとって学びの多い学校のような場所だったんだ。素晴らしい友人を作り、最高の成績を目指して切磋琢磨し、自分自身にとっても、ファンにとっても素晴らしい想い出を作ることができたと思う。
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——あなたは、1983年から85年にかけてウディネーゼに在籍していました。鹿島を除けば、唯一の国外でのプレーでしたね。
たしかにそうだね。当時世界最高峰だったセリエAでプレーできたことは、私のサッカー人生において最高の栄誉のひとつだ。とくに私がプレーしていた時代は、世界中のスターが続々と集結していた。そこでのプレーは、私のキャリアで最大の挑戦であり、まさに夢のような2年間だったよ。
個人的にも一流選手たちと交流を持ち、世界一のリーグを知ることができたのは、大きな財産だった。セリエAは私にとって学びの多い学校のような場所だったんだ。素晴らしい友人を作り、最高の成績を目指して切磋琢磨し、自分自身にとっても、ファンにとっても素晴らしい想い出を作ることができたと思う。
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——それ以前は、セリエAはどんな印象でしたか?
イタリア行きが決まる前からテレビやニュースで常に情報はチェックしていた。セリエAの試合を観ることは当時の私にとっての娯楽のひとつだった。サッカー好きのブラジル人は、みんなそうだったんじゃないかな。だから、ウディネーゼとの交渉が始まったときは、ワクワクしたよ。
当時のイタリアサッカーについては何でも知っていた。スクデットを獲得したユーベにどんな選手がいて、ローマでファルカンがどんな活躍をしているかといった具合にね。そして何より、セリエA行きが決まる前年のスペイン・ワールドカップで、私はイタリアサッカーの質の高さを痛感したんだ。優勝候補筆頭だった我々ブラジルを撃破したのがイタリアだったからね。
とくにディフェンダーのマークの激しさは強烈で、いつかイタリアでプレーすることになったら、苦労するだろうなと感じていた。まさかこんなに早く現実になるとは思わなかったがね。
——ウディネーゼより前にイタリアのクラブからオファーが届いたことは?
ほとんど知られていないが、実は1980年にミランからオファーを受けていた。当時のミランはセリエBにいて、再び偉大なチームを作ろうと優秀な人材を集めている最中だった。そして、副会長のジャンニ・リベラがブラジルまでやってきて、フラメンゴとの交渉の席に着いたんだ。
私はこの移籍話にとても乗り気だったが、ミランのオファーは、フラメンゴを満足させるものではなかった。当時はクラブと選手の主従関係がいまよりはっきりしていて、クラブが「ノー」と言えば、選手にできることは何もなかった。
欧州のクラブからのオファーは他にもあったが、興味を引くほどのものはなかった。その時期は、82年のワールドカップも控えていたし、このまま慣れ親しんだフラメンゴでプレーし、大会に備えたほうが賢明だと感じていたんだ。当時は欧州に渡って大金を稼ごうなんて発想もなかったしね。
イタリア行きが決まる前からテレビやニュースで常に情報はチェックしていた。セリエAの試合を観ることは当時の私にとっての娯楽のひとつだった。サッカー好きのブラジル人は、みんなそうだったんじゃないかな。だから、ウディネーゼとの交渉が始まったときは、ワクワクしたよ。
当時のイタリアサッカーについては何でも知っていた。スクデットを獲得したユーベにどんな選手がいて、ローマでファルカンがどんな活躍をしているかといった具合にね。そして何より、セリエA行きが決まる前年のスペイン・ワールドカップで、私はイタリアサッカーの質の高さを痛感したんだ。優勝候補筆頭だった我々ブラジルを撃破したのがイタリアだったからね。
とくにディフェンダーのマークの激しさは強烈で、いつかイタリアでプレーすることになったら、苦労するだろうなと感じていた。まさかこんなに早く現実になるとは思わなかったがね。
——ウディネーゼより前にイタリアのクラブからオファーが届いたことは?
ほとんど知られていないが、実は1980年にミランからオファーを受けていた。当時のミランはセリエBにいて、再び偉大なチームを作ろうと優秀な人材を集めている最中だった。そして、副会長のジャンニ・リベラがブラジルまでやってきて、フラメンゴとの交渉の席に着いたんだ。
私はこの移籍話にとても乗り気だったが、ミランのオファーは、フラメンゴを満足させるものではなかった。当時はクラブと選手の主従関係がいまよりはっきりしていて、クラブが「ノー」と言えば、選手にできることは何もなかった。
欧州のクラブからのオファーは他にもあったが、興味を引くほどのものはなかった。その時期は、82年のワールドカップも控えていたし、このまま慣れ親しんだフラメンゴでプレーし、大会に備えたほうが賢明だと感じていたんだ。当時は欧州に渡って大金を稼ごうなんて発想もなかったしね。