インテル入団内定のバネガ「子供の頃はストリートサッカーでメッシにやられっぱなしだった」

2016年05月26日 ジャンルカ・ディ・マルツィオ

赤黒のタトゥーはあくまでもニューウェルスのものだ。

リーガで日常的に対戦し、アルゼンチン代表でも同僚となったバネガ(右)とメッシ(左)。幼い頃はロサリオのストリートで技を競い合った。(C)Getty Images

 右のふくらはぎには、あるタトゥーが彫られている。色は、ロッソネーロ(赤黒)だ。幼少期から大ファンのニューウェルス・オールドボーイズのエンブレムで、「神のみが我を知る」という言葉とともに、大胆に入っている。
 
『WhatsApp』(チャットアプリ)のプロフィールは、クルクルと変わる。最もよく出てくるのは、「少ないけれど素晴らしい友人たち」、そして「バネガだ。よろしく」というフレーズだ。このSNS好きなところをはじめ、キラリと光るピアス、良く手入れされた髪や髭、そして不良っぽい顔つき。いかにも現代的な若者だ。
 
 しかし、ピッチに立てば、古き良きフットボーラーの香りを漂わせる。ボールを持った途端に誇り高く、そしてふてぶてしくなるのは、自分に何ができるか完璧に理解しているから。見る者を楽しませ、自らも楽しむ。どれだけ長い時間、過酷なトレーニングを積み上げても決して手に入らない、天性のタレントの持ち主だけに許された贅沢だ。
 
 アルゼンチンのロサリオで過ごした子供時代は、日が暮れるまでストリートでボールを追い掛けていた。同じ街区には、あのリオネル・メッシ(1歳年上)が住んでいた。
 
「レオ(メッシの愛称)とは何度か戦ったことがある。彼はすぐにスペインに渡ってしまったけど(13歳でバルセロナへ)、僕にとってはかえって良かったね。いつもやられっぱなしだったからさ」
 
 貧しい家族の中でハングリーに育った。ボカの育成部門で先輩フェルナンド・ガゴの背中を見ながら育ち、トップチーム昇格後はファン・ロマン・リケルメからも多くの教えを受けた。類稀なパスセンスはさらに磨かれ、弱冠19歳でヨーロッパに渡る。2008年1月、バレンシアと契約したのだ。
 
 早過ぎた? そうかもしれない。ナイトライフに溺れ、頻繁にトレーニングをさぼり、車で炎上事故を起こし、さらにはガソリンスタンドでサイドブレーキを引き忘れて脛を骨折するという馬鹿げた事件まであった。
 
 選手としても人間としても成熟したのは、アトレティコ・マドリーやニューウェルスへのレンタル移籍を経て、2014年夏に流れ着いたセビージャでだった。ウナイ・エメリ監督の下で精神的に安定し、持ち前のタレントをコンスタントに発揮。ヨーロッパリーグ3連覇(のうち直近の2回)に決定的な貢献を果たした。
 
 そして、この夏からは新しい舞台に活躍の場を移す。インテルとすでに3年契約で合意済みなのだ。同胞ハビエル・サネッティ副会長のラブコールに応じ、すでに2月の段階で事実上の合意が成立していた。もはや正式発表を待つばかりの状態だ。
 
 ふくらはぎのロッソネーロは、あくまでもニューウェルスで、ミランとは無関係。ネラッズーロ(黒青)を纏ったエベル・バネガの新たなキャリアが、もう間もなくスタートする。
 
文:ジャンルカ・ディ・マルツィオ
翻訳:片野道郎
 
※当コラムではディ・マルツィオ氏のオフィシャルサイトにも掲載されていない『サッカーダイジェストWEB』だけの独占記事をお届けします。
 
【著者プロフィール】
Gianluca DI MARZIO(ジャンルカ・ディ・マルツィオ)/1974年3月28日、ナポリ近郊の町に生まれる。パドバ大学在学中の94年に地元のTV局でキャリアをスタートし、2004年から『スカイ・イタリア』に所属する。元プロ監督で現コメンテーターの父ジャンニを通して得た人脈を活かして幅広いネットワークを築き、「移籍マーケットの専門記者」という独自のフィールドを開拓。この分野ではイタリアの第一人者で、2013年1月にグアルディオラのバイエルン入りをスクープしてからは、他の欧州諸国でも注目を集めている。
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