「あそこの大学に行け」「就職しろ」の日本を飛び出して24年。川合慶太郎がオランダで築き上げた“Jドリーム”の存在意義【現地発】

2024年06月26日 中田徹

Jドリーム代表、川合慶太郎インタビュー

サッカーを通して日蘭の架け橋となってきた川合さん。写真:中田徹

「アーリー・スカンスはまさに『日体大のハンス・オフト』でした」と川合慶太郎(48歳)は振り返る。

 1992年から93年まで、日本代表を指揮したオフトは「アイコンタクト」「トライアングル」「スリーライン」「スモール・フィールド(コンパクト)」といった平易な言葉を用いて、日本人のサッカー理解度を高めた。
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 スカンスも、それまでの「頑張れ、走れ」という日本体育大学のサッカーをゼロから作り変えて「ボールを繋ぐサッカー」に変えた。4-3-3システムなら、最初は各ラインの約束事を決めることからスタートした。

「本当に目から鱗が落ちるようなことばかりでした。当時は『ボールを持っている選手が次のプレーを決める』と信じていました。しかし、アーリーは『受け手がボールを呼ぶことで次のプレーを決めるんだ』と教えてくれたんです」

 つまり「コミュニケーション」だった。

 大学3年から4年にかけて、スカンスの身の回りを世話し、「オランダには芝生のピッチがたくさんあって、放課後は子どもたちがそこでサッカーするんだ」などとサッカー事情や国のこととかを聞き続けた川合は卒業した98年、オランダに飛んで1年暮らした。

 そこではGVVVというクラブでプレーしたり、子どもたちを指導する手伝いをしたりした。社会人や学生で構成されるアマチュアクラブということもあり、練習は週に2~3回だった。・
 
 日本では「あそこの大学に行け」「就職しろ」「早く結婚しろ」などと慌ただしく急かされた。しかし、オランダに来ると「たかだか22歳、23歳で何言っているの⁉ 急いで将来のことを考えなくてもいい。お前が決めたことをやればいい。そのことを周りも別に何も言わないし尊重する」と諭された。

「サッカー云々でなく、オランダにずっと住みたいと思った。ここは本当に人生がスローダウンしていいんだと感じました」

 サッカーも勉強も、子どもたちが自分のレベルに合わせていることも、川合にとっては新鮮だった。小学生の頃の彼は体力がなく、そのため授業を聞く集中力が持たず、勉強も運動も苦手だった。しかし、オランダでは子どもが留年するのは当たり前。サッカーも身体の小さな子は、必要であれば下のカテゴリーでプレーさせる。

「オランダに来てからから分かったのは、僕は成長期が遅かっただけ。中学に上がったら体力が付いて、急に勉強もスポーツもできるようになった。しかし、小学生の時の僕は本当に辛かった。オランダでは勉強もスポーツも、自分に合ったところで真剣勝負できる。身体が大きな子にとっても、小さな子にとっても、同じ年齢のチームでプレーしたらつまらないですよね。将来産まれてくる子どもに『自分と同じ思いをさせたくない』と思って、オランダに住むことを決めました」

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