並外れて創造的な芸術家は、比類なき闘争心を内に秘め、冷徹に振る舞う。そんなベッケンバウアーが約30年前に予言していたことは?【追悼コラム】

2024年01月12日 加部 究

「カイザー(皇帝)」の異名で君臨

1月7日、ベッケンバウアーが逝去。享年78。西ドイツ代表では選手として、監督としてもW杯を制したレジェンドだ。(C)Getty Images

 実は「日本サッカーの父」と呼ばれるデットマール・クラマーは、1964年に東京で開催された五輪を終えると、母国西ドイツへ戻り、ユース代表の監督に就任した。

 当時西ドイツには「同国史上最高」と賞賛される有望な若手が目白押しで、自信満々でオランダ遠征に出かけたそうだ。選手たちを乗せたバスの中ではスコア予想が始まり、「2-0」から「4-0」まで楽勝ムードが蔓延する。

 ところが西ドイツの未来のスター軍団を凌駕して、この試合で勝利を収めたのはオランダだった。

 結局西ドイツは1974年に自国開催のワールドカップ決勝でオランダに雪辱を遂げるわけだが、欧州を代表する2人のスーパースター、フランツ・ベッケンバウアーとヨハン・クライフのライバル関係は、こうしてユース時代から始まっていた。

 一昨年のカタール・ワールドカップからドイツ代表に連勝した日本だが、どん底の時代に救いの手を差し伸べてくれたのは、紛れもなくかつての西ドイツだった。

 アジアで初めての五輪開催を控えた日本は、その6年前には自国開催のアジア大会でもグループリーグで敗退するほど低迷を極めていた。当時JFA会長だった野津謙は窮余の一策として、DFB(ドイツ連盟)に指導者の派遣を要請するのだが、第二次世界大戦で同盟国だった西ドイツ(当時)は、将来の代表監督候補として嘱望されるクラマーを送り込んでくれた。

 やがて日本でも『三菱ダイヤモンドサッカー』等で欧州シーンが紹介されるようになり、海外サッカー熱が広がっていくわけだが、欧州側で最も人気を集めたのがドイツであり、その象徴的存在として「カイザー(皇帝)」の異名とともに君臨していたのがベッケンバウアーだった。

 64年東京五輪でベスト8進出を果たした日本代表は、その2年後にサッカーの母国イングランドでワールドカップ決勝を初観戦。
 
 まだテレビ中継どころか新聞等のメディアでもワールドカップがほとんど報道されていなかった時代である。日本代表選手たちにとっても世界の頂上決戦は、文字通り「雲の上」の世界だった。

 彼らは開催国と戦う西ドイツのベンチに、ヘルムート・シェーン監督をコーチとして支えるクラマーの姿を発見すると感動し、ピッチ上で躍動する弱冠20歳のベッケンバウアーには衝撃を覚えたという。

 残念ながらベッケンバウアーは、この決勝戦で疑惑の判定の末に敗れた。延長戦に突入し、イングランドのジェフ・ハーストが放ったシュートはクロスバーを叩き真下に落下。ベッケンバウアー自身も「白煙が舞い上がるのを、はっきりと確認した」と言う。

 それは何よりボールがゴールラインを完全に通過していない証だったが、主審はゴールと認定。最終的には2-4で敗れた。

 さらに4年後のメキシコ・ワールドカップでも、西ドイツはイングランドに雪辱して準決勝に進出。ベッケンバウアーは、「20世紀最高の試合」に選ばれた準決勝のイタリア戦(3-4で敗戦)で、途中で右肩を脱臼しながらテーピングで固めて最後までプレーを続けている。

 しかし1970年代に入ると、最後尾で守備を統率しながら機を見て攻撃に参加していく「リベロ」という新境地を開拓し、いよいよベッケンバウアーは最盛期を迎えていく。

 特に1972年EURO(欧州選手権)では、MFのギュンター・ネッツァーとタイミングを見て役割を前後するランバ=サンバという戦略を華麗に機能させて優勝。その2年後には、キャプテンとして自らが活躍して来たミュンヘンのオリンピア・シュタディオンでワールドカップを掲げ、この大会の決勝戦は日本で初めて生中継された。

【PHOTO】第1回大会は1930年!FIFAワールドカップ歴代優勝国を紹介!(1930~2022)

次ページ「個人技を見せ合うサッカーが復活」

みんなにシェアする
Twitterで更新情報配信中

関連記事