教員から44歳でプロレフェリーへ! 昨季のJリーグ最優秀主審の決断【審判員インタビュー|第7回・中村太】

2024年01月09日 サッカーダイジェストWeb編集部

高校時代、同地区の1学年上にいた中澤佑二さんからの影響も

2023年のJリーグアウォーズで年間最優秀主審賞に輝いた中村レフェリー。写真:滝川敏之

「審判員」。サッカーの試合で不可欠ながらも、役割や実情はあまり知られていない。たとえば、「審判員」と法を裁く「裁判官」を同等に語るなど、本質の違いを見かけることもあれば、「審判員にはペナルティがない」という誤った認識を持っている人も少なくはない。

 罰するために競技規則を適用しているわけではなく、良い試合を作るために競技規則を適用していく。それが審判員だ。

 そんな審判員のインタビューを、『サッカーダイジェストWeb』と『週刊レフェリー批評』(株式会社ダブルインフィニティ)が前編と後編に分け、隔月で連載していく。

 第7回はJクラブ練習生を経て、教員とJリーグ担当審判員を兼業し、2022年に日本サッカー協会(JFA)とプロフェッショナルレフェリー契約を結んだ中村太氏にインタビューを行なった。

取材・文●石井紘人@targma_fbrj

――◆――◆――

――サッカーを始めたきっかけを教えてください。

「私は小さい頃は空手をやっていたのですが、ふたつ上のサッカー好きの従妹に憧れて小学5年生から少年団でサッカーを始めました。当時から身長が大きかったので、ポジションはゴールキーパーです。大会で勝ち上がるようなチームではありませんでしたし、私もトレセンなどには選ばれませんでした」

――では、中学校も部活でしょうか?

「はい。サッカー部です。県大会で1回戦負けくらいのレベルでした」
 
――高校は進学校ですよね? 中村さんの選手としてのレベルはいかがでしたか?

「部活よりも勉強を大事にする学校だったと思います。高校生の時には地区選抜に選ばれることもあり、隣の高校の一学年上に中澤佑二さんがいました。中澤さんは当時から有名でしたね」

――中澤さんは、高校時代から有名だったのですね。

「はい。『中澤さんならJリーガーになるのではないか』と皆で話していて、中澤さんの地区での呼び名は『J』でした。

 その後の話ですが、私が教員として赴任した学校が中澤さんの出身校の隣の高校ということもあって、中澤さんが休みの日には生徒と一緒にサッカーをプレーしてくれていました。子どもたちが本当に喜んでいたのは良い思い出です」

――教員免許を大学で取られるわけですが、順天堂大学はサッカー推薦などではなく、受験で入られたのですよね?

「勉強が得意なわけではありませんが、両親には『サッカーをやりたいなら勉強と両立しなさい』と言われていたので、それが功を奏したのかもしれません。順天堂大のサッカー部は、関東1部リーグで、関東選抜に選ばれているような選手も多く、大学4年生になっても、私はボランチやセンターバックで試合に出ていましたが、絶対的なレギュラーというわけではありませんでした。同級生でJリーガーになったのは石原克哉(元甲府)です」
 

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