【今日の誕生日】3月8日/イングランド代表の黒人選手・第1号――L・カニンガム

2016年03月08日 サッカーダイジェストWeb編集部

マドリー初のイングランド人で、マンUにも在籍した開拓者。

フランスでも82年、W杯準決勝・西ドイツ戦のPK戦で黒人選手がキッカーに選ばれなかったことが話題になったりしたが、かつて欧州では有色人種にとって代表入りのハードルが高かったことは事実。その“伝統”を打ち破ったのだから、カニンガムがいかに優れた選手だったかが分かるというものだろう。 (C) Getty Images

◇ローリー・カニンガム:1956年3月8日生まれ イギリス・ロンドン出身
 
 サッカー界にも常に、人種問題は付きまとう。ファンや選手の差別的行為が大きな騒動を巻き起こすこともたびたびだが、"人事"においてもそれが取り沙汰されることがある。
 
 先日は、欧州主要リーグに黒人監督が存在しないことが話題となったが、差別なのか能力的な問題なのかは別にしても、ここではまだ有色人種がマイノリティーであることは確かなようだ。
 
 一方、選手の獲得や起用についてはどうか。こちらに関しては、もはや人種の垣根はほぼ取り払われている。今やどのクラブにも、白、黒、黄……と肌の色に関係なく、能力の高い選手が重用されている。
 
 代表チームでも、その傾向に変わりはない。しかし歴史をさかのぼると、80年代前半ぐらいまでは、選手起用において人種の偏りがあったといわれている。
 
 例えば、国内リーグではずっと以前から黒人選手が活躍していたイングランドで、初めてスリーライオンズのユニホームに袖を通す選手が現われたのは1977年。イングランド最初の国際試合(1870年のスコットランド戦)から、1世紀を過ぎてのことだった。
 
 そして、その栄誉を与ったのがローリー・カニンガムである。77年にU-21代表に選出され、79年にはA代表(通算6試合)でもプレーした。
 
 イングランド代表初の黒人選手――。そう彼は紹介されるが、実は71年にベンジャミン・オデジェという選手が学生代表チームに選出されていたことが分かり、プロとしては初という但し書きが付くようになった。
 
 得点力のあるウイングプレーヤーで、74年にレイトン・オリエントでデビュー。77年には、イングランドでいち早く黒人選手を起用したという歴史を持つWBAに移籍し、名将ロン・アトキンソンの下で大活躍し、代表選手としてのキャリアもスタートさせた。
 
 78-79シーズン、UEFAカップでバレンシアと対戦した際のプレーがレアル・マドリーの関心を引き、カニンガムはこのスペインの名門クラブと契約を交わすに至った。移籍金は95万ポンド。同クラブ初のイングランド人選手の誕生だった。
 
 マドリーでは1シーズン目からリーガ&国王杯の二冠に貢献し、翌シーズンにはチャンピオンズ・カップ(現リーグ)の決勝にも進出。パリで母国のリバプールと対戦し、残念ながら0-1で敗北を喫した。
 
 この頃から、カニンガムの順調な歩みを怪我が妨げるようになる。徐々に出場機会を減らした彼は83年、アトキンソン率いるマンチェスター・ユナイテッドにレンタル加入。ここから、流浪のサッカー人生が始まった。
 
 ヒホン、マルセイユ、レスター、バジェカーノ、シャルルロワと、カニンガムは毎シーズン、違う国のクラブを渡り歩いた。88年にはウィンブルドンに加入。この弱小クラブでは、世紀のアップセットといわれるFAカップ決勝(リバプールに1-0の勝利)で途中出場を果たした。
 
 そして88年にバジェカーノに再加入し、1シーズンを終えた後の89年7月15日、カニンガムはマドリードで交通事故に遭遇。新たな歴史を創成し続けてきた男は、33歳でその生涯を閉じた。
 
 黒人選手のイングランド代表入りはその後、ビブ・アンダーソンが82、86年ワールドカップの最終メンバーに入り、86年にはジョン・バーンズが攻撃の切り札として活躍、90年大会ではデス・ウォーカー、ポール・パーカーがレギュラー入り……と拡大していった。
 
 90年代以降は、イアン・ライト、ポール・インス、リオ・ファーディナンド、ソル・キャンベル、エミール・ヘスキー、アシュリー・コール、デイビッド・ジェームズなど、黒人選手が重要なポジションを務めることも多くなった。
 
 そして今夏開催されるEURO2016では、ラヒーム・スターリング、クリス・スモーリング、ダニー・ウェルベック、ファビアン・デルフ、ナサニエル・クライン、ダニエル・スターリッジら、多くの有能な選手がメンバー入りすると予想されている。
 
 70年代にカニンガムが開いた扉は、今や完全に取り払われたのだ。
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