欧州サムライ戦士の“最高到達地点”は? 三笘薫がプレミア席巻中の今、足跡を振り返る。一瞬の輝きに焦点を当てれば小野伸二だが…

2023年03月12日 加部 究

奥寺康彦のケルン移籍は常識破りの冒険だった

(左から)香川真司、小野伸二、中田英寿。欧州の名門に名を残したレジェンドたちだ。(C)Getty Images

 ブライトンは、三笘薫の違約金を3100万ユーロ(約42億円)に設定したという。当然獲得に乗り出せるチームも絞られ、アーセナルの優勢が伝えられている。また、現在アーセナルでは冨安健洋がレギュラーに近い状況で優勝争いを繰り広げており、このクラスのチームの主力として継続的に活躍できる選手が複数出てくるようなら、日本サッカーも新たな時代を迎えるのかもしれない。
 
 ただし、こうして日本代表の大半を欧州組が占めるようになるまでには歴史的な蓄積があり、現在の選手たちと先駆者たちの足跡を同列には語れない。特に奥寺康彦がケルンへ移籍したのは、日本サッカーがどん底の低迷にあえいでいた時代だ。幸いケルンを指揮するヘネス・バイスバイラーが、日本代表の二宮寛監督と懇意で自身の慧眼への確信もあり獲得を決めたが、当時世界最高水準のブンデスリーガで優勝を狙うチームの外国人枠をアマチュアの国の助っ人に託したわけだから、常識破りの冒険だったことは間違いない。
 
 しかし25歳でプロになった遅咲きの奥寺は、いきなり最初のシーズンでリーグ、カップを制し、翌シーズンには欧州制覇に肉薄した。リーグ王者のみに参加が許されたチャンピオンズカップ準決勝で、ノッティンガム・フォレストと対戦。最初のアウェー戦では終盤に自ら同点ゴールを叩き込んで3-3の引き分けに持ち込み、決勝進出へは視界良好だった。

 ところが折り返しのホームゲームでは、0-1でまさかの敗戦。もし準決勝を制して優勝していれば(決勝の相手はスウェーデンのマルメだった)、欧州と南米両大陸の王者が東京で雌雄を決する第1回のトヨタカップが待っていただけに、非常に悔やまれる惜敗だった。
 
 奥寺の凄みは、ドイツで「第2章」を築き上げたことだった。ケルンでは主にウインガーとして活躍したが、後に移籍したブレーメンでは「ほとんど全てのポジションを経験し」オールラウンダーとして3度も準優勝を果たしている。現在ほどバイエルンの独走が顕著だったわけではないが、ドイツでの計9シーズンで4度も優勝争いを演じた濃密な長寿ぶりは伝説と言える。万が一、ここに欧州制覇の勲章が加わっていれば、今でも匹敵する日本人選手は見当たらなかった。
 
 また道を切り拓いたという点で、非常に大きなインパクトを残したのが中田英寿だった。日本からの欧州移籍はしばらく空白が続き、「ドーハの悲劇」を経て三浦知良がジェノアへの挑戦で風穴を開けるも1シーズンで帰国。日本代表のワールドカップ初出場を牽引した中田は、フランス大会を終えた1998年に、セリエBから昇格したばかりのペルージャのシャツに袖を通した。

 開幕戦の相手は2季連続してチャンピオンズリーグのファイナリストになっていたユベントスで、遥か彼方の格上だったが、中田はビッグネームたちに臆することなく2ゴールを奪う鮮烈なデビューを飾る。これでトップ下として不可欠の存在になりチームを残留に導くと、翌シーズン途中でローマへとステップアップした。

【動画】スクデットを手繰り寄せる衝撃の一撃!中田英寿がユベントス戦で決めたスーパーミドル弾

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