松田直樹の背中を追って故郷のクラブに。「山雅の流儀」を伝え続けることが託された次なる使命【田中隼磨の生き様|後編】

2023年01月09日 元川悦子

オファーもないうちから「次は松本へ行こう」

2014年に地元クラブの松本に移籍。魂のこもったプレーで二度のJ1昇格に尽力するなど、ピッチ内外で存在感を示した。写真:徳原隆元

 昨季限りで現役を引退した田中隼磨。23年間のプロキャリアを振り返るとともに、未来へのビジョンを語ってもらった。前編ではプロデビューから名古屋時代を回想。後編では、地元クラブでの奮起と"これから"についてお届けする。

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 ドラガン・ストイコビッチ監督率いる名古屋で2009~2013年の5シーズンを戦い、三度のアジア・チャンピオンズリーグ参戦を果たすなど、充実した時を過ごした田中隼磨。そんな自分が2013年末に契約満了を通告されるとは、まさに青天のへきれきだった。

 年齢は31歳になっていたが、まだまだ動けるし、走れる。宮本恒靖や松井大輔、三都主アレサンドロなど30代になってから海外移籍を選ぶ選手も少なからずいて、隼磨もそういう道を選択してもおかしくなかったが、彼の頭には地元のクラブ・松本山雅FCへ行くことしか浮かばなかったという。

 隼磨は偽らざる胸の内を明かす。

「海外への憧れは若い時からあって、2001年の冬にスペインリーグのスポルティング・デ・ヒホンに、2006年にもフランスリーグのサンテチェンヌに1か月程度、練習参加しました。テスト生のつもりで挑んだけど、移籍金を伴う移籍ということもあって、契約を取り付けることはできなかった。

 30代になってもう1回、海外に挑戦しようというのはなかったですね。というのも、頭の片隅には『地元の松本にプロサッカークラブがあったらいいな。そこで活躍したいな』という気持ちがずっとあったんです。自分が幼い頃から知っている松本山雅がだんだん力をつけ、2013年時点ではJ2の上位を戦っていた。

 マツさん(松田直樹)が2011年に亡くなったこともあって、『自分がJ1に上げなきゃいけない』っていう想いは高まる一方でした。まだ正式なオファーももらっていないうちから『次は松本へ行こう』って決めてたくらいです」
 
 実際、J1や他のJ2クラブからもオファーはあったという。年俸や条件面では明らかに別の選択肢を選んだほうが良かった。当時の松本山雅は専用練習場もクラブハウスもなく、契約しているスポーツジムで筋トレをしなければいけないような状況だった。

 それでも、本人は「J1という舞台とかお金じゃない。やりがいが一番」という信念を抱き、家族に許可をもらって故郷に帰る決断をしたのである。

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