懸命な2年間のリハビリ、叶わなかった1年でのJ2復帰…松本山雅の魂、田中隼磨が下した苦渋の決断【コラム】

2022年11月17日 元川悦子

今年4月、複雑な胸中を吐露

今季限りでの現役引退を表明した隼磨。23年間のプロ生活に幕を下ろす。写真:徳原隆元

「生まれ育った街のクラブ 松本山雅FCでサッカー選手として引退できることを、とても嬉しく、そして誇りに思えます」

 11月17日昼。J3の松本山雅FCから出された「田中隼磨選手、現役引退のお知らせ」のリリースには、横浜F・マリノスを皮切りに、東京ヴェルディ、名古屋グランパス、松本山雅と23年間にわたってプロキャリアを続け、走り抜いた40歳の右サイドバックが、今季限りで現役を退くという重い事実が記されていた。

 実は、前日16日に本人からライン電話の着信があった。日本代表取材のためドバイ滞在中で上手く通話ができず、報告を聞けなかったのだが、生真面目で義理堅い彼のこと。自らの決断を直接、言葉で伝えたかったのだろう。田中隼磨というのはそういう人物なのだ。

 そして1日が経過した17日、ようやく連絡が取れて話ができた。「最終的に決めたのはここ2~3日の間。自分としてはホントはやりたかったけど、J2昇格が難しくなったこともあって決断しました。

 最後は応援してくれたファン・サポーターの前で1分でもいいからプレーして、直接感謝を伝えたい。今はそう思っています」と、本人は20日のJ3最終節、ホームでのSC相模原戦へ思いを馳せていた。

 2021年2月の開幕・レノファ山口戦に先発出場した直後、長年抱えてきた右膝負傷が悪化し、長期リハビリに突入してから約2年。隼磨は2度の手術を経て、ピッチに戻ろうと懸命に努力し続けてきた。

 今年4月にじっくり話した時も、自身の複雑な胸中を吐露していた。

「現状を踏まえると、引退を現実的に捉えなければいけないのは確か。シンプルにこの右膝が良くならなければ、ピッチの上で示しもつかない。示しがつかず、プレーができなければ、もう決断しなければならない。

 でも、僕はどうしても松本のためにピッチに戻りたい。自分が生まれ育った町・松本のかりがね練習場でリハビリをしていると、近所のおじさんやおばさんが『あんたがいないからJ3に落ちちゃったじゃないか』『待ってるから戻って来て』と言ってくる。応援してくれる人たちの言葉を聞くたびに『絶対にやめられない』と感じるんです」
 
 とはいえ、その後の経過も芳しくなく、全体練習にもなかなか合流できなかった。7月には40歳の大台を迎え、焦燥感は高まる一方だったに違いない。

 ピッチに立てない自分が遠くから見つめる松本山雅もJ3で大苦戦。序盤こそU-19日本代表の横山歩夢のゴールラッシュもあり、J2昇格圏の2位以内をキープしていたが、7月に複数人のコロナ感染者が出てチーム活動が休止に。

 直後のいわき、鹿児島との2連戦を落とし、3位に転落してしまう。その後、鹿児島は失速したが、今度は藤枝の驚異的な追い上げを受け、直接対決で敗戦。まさかの逆転を許す。

 そして勝負の懸かったリーグ終盤には富山、宮崎に連続4失点で敗戦。1年でのJ2復帰の道が事実上、途絶えることとなった。
 

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