【三浦泰年の情熱地泰】天国の義郎叔父さんへ……またいつか怒ってもらいたかった。最後の言葉を胸に仕舞って強く生きます

2022年04月01日 三浦泰年

カズと僕がサッカーの世界にいられるのも義郎叔父さんの存在があったから

数年前に行なわれた城内FCの初蹴りの時の写真。一番手前が故・納谷義郎氏。写真:ヤナガワゴーッ!

 義郎叔父さんが永眠した。

 僕とカズにとって、サッカーキャリアで一番最初の監督。

 納谷義郎叔父さんが76歳で亡くなってしまった……。

 3月20日(日)のJFL・2節マルヤス岡崎戦に2-4で敗戦した直後、実家から応援に来た母から聞かされた。
「義郎叔父さんが亡くなった……」と。

 家族に「周りには伝えるな」と言っていたのを聞いていたから、義郎叔父さんの体調が優れず入院していたのは周りには伝えられずにいた。

 1週間前の開幕戦勝利後のLINEが最後のLINEになり、1か月前に病院へお見舞いに行き、話が出来たのが最後の会話になった。

 僕にとって支えであり、父親代わり、師であり、監督であり、叔父さんである。父親の弟であり、親父の一番の理解者でもあった。

 カズと僕が今、ここでサッカーの世界にいられるのも、間違いなく義郎叔父さんの存在があったからである。
 
 中学生の時に、初めて日本代表の練習で東京へ呼ばれた時、義郎叔父さんはグリーン車のチケットを取って静岡駅で新幹線に乗せてくれた。

 16歳の時に、日本代表でシンガポールへ大会出場した際には、日本代表の日の丸旗を持って、お金を借りて現地まで来てくれた。

 城内FCでの下田の合宿、春の招待サッカー、夏の神戸サマーフェスティバル、新潟遠征、大町遠征などたくさんの想い出が甦る。

「体力をつけるために水を飲むな」と言われれば水を飲まなかった。「たくさんご飯を食べろ」と言われれば残さず何でも食べた。

「人の3倍努力しろ!」と言われれば努力して、「あの子がライバルだ!アイツに負けるな」と言われれば必死で頑張った。

 僕が監督で転々とした地域には、いつも顔を出してくれて一緒に食事をしてサッカーの話をした。また、身体のことも考えてマイ醤油やマイ御飯を持参して(店には迷惑だが…)、そこまでして身体を大事にしていたのだが……。

 昔はたくさん食べてたくさん呑んで。たくさん怒ってたくさん笑って、義郎叔父さんに色々なことを教えてもらった。

 聞く力。傾聴力は義郎叔父さんの言っていることに、子どもの頃から常に耳を傾けたからこそできたと思っている。
 

次ページ間違いなく、怒られるから成長した。怒られた分だけ、上手くなった

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