梁勇基、脇坂泰斗ら60名以上のJリーガーを育て上げた名将が勇退…部員11人から出発し、阪南大を関西の強豪校に導いた須佐監督の信念

2022年02月04日 森田将義

3部リーグからの出発。高校時代にサッカーをやっていた生徒を見つけて入部を説得する作業から始まった

多数のJリーガーを育てた阪南大の須佐監督が勇退。写真:徳原隆元

 昨年末、準優勝で終わったインカレを最後に阪南大学の須佐徹太郎・前監督が定年を迎えるにあたって、大学サッカーの現場から退いた。これまで須佐前監督が残してきた経歴を挙げればキリがない。監督としてチームを率いた34年の間に関西学生サッカーリーグで春・秋リーグ含め12回優勝。2001年と2012年には総理大臣杯のタイトルを掴み、日本一にも輝いた。これまで輩出してきたJリーガーは、MF梁勇基(ベガルタ仙台)やFW河田篤秀(大宮アルディージャ)など60人以上に及び、MF脇坂泰斗(川崎フロンターレ)のようにフル代表まで登り詰めた選手もいる。現役引退後に、指導者として後進の育成に励むOBも少なくなく、カマタマーレ讃岐の指揮を執る西村俊寛監督は大学OBだ。
 
 今でこそ関西屈指の強豪として知られるが、1987年4月に須佐前監督が就任した当初の阪南大は3部リーグに所属。部員が11人しかおらず、新入生リストから高校時代にサッカーをやっていた生徒を見つけて入部を説得する作業から始まった。部の強化とともに学校の制度改革も進めていく。就任したばかりの阪南大は授業が終わると同時にバイトへと行く生徒が多く、「本来はうるさくてワイワイしているはずなのに活気がなかった」。

 サッカー部としても、他の大学よりも後発のスタート。文武両道が出来る生徒は、関関同立と称される私立大を選ぶ傾向が根強く、いわゆる優秀な人材の確保は難しい。
「入学時点では学力テストが低いかもしれないけど、勉強していないだけ。俺はよく言うけど人間の成長とは、砂場に近い。一つの穴を徹底して掘り進めれば、穴の面積は広がっていく。スポーツなど、ひとつでも何かを追求している生徒を目覚めさせれば、勉強など他の部分まで広がり穴の面積も広がっていく。入学時点ではダメだと言われる選手でも、サッカーを追求し続ければ、25歳ぐらいになったら立派な人間になっていく」
 そう考える須佐前監督は、スポーツ推薦の導入に奔走した。
 

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