マドリーの歴史を変えたレフティが永眠…「単なる首都のクラブ」を欧州5連覇に導く【コラム】

2022年01月28日 小宮良之

「これがマドリーの勝ち方だ」

1月18日に逝去したフランシスコ・ヘント。(C)Getty Images

 今年1月18日、パコという愛称で呼ばれたフランシスコ・ヘントが88歳で亡くなっている。「レアル・マドリーの歴史を作った」といっても過言ではない左利きアタッカーだった。高速ドリブルにトリッキーなパス、そして切り込んでのシュートなど対峙したディフェンスには「悪魔」に見えたという。

 今現在、世界に冠たるレアル・マドリーが存在するのは、その「昔」があったからだ。
 
 1950年代、マドリーは欧州チャンピオンズ・カップ(現行のチャンピオンズ・リーグ)で5連覇という金字塔を立てている。後にも先にも、その記録は破られていない。"黄金の矢"と言われたアルフレッド・ディ・ステファノを中心にしたプレーは他を圧倒した。

「これがマドリーの勝ち方だ」

 そんなフレーズが生まれるほど、王者の風格で勝利した。あまりの強さと人気に、審判のジャッジが味方することも多かったことで、「これがマドリーの勝ち方」と敵チームのファンが揶揄することもあったほどだ。

 マドリーはそのブランド力によって、有力な選手を呼び寄せられるようになった。所属した選手は伝統を重んじ、誇り高く雄々しくプレーした。その歴史を積み重ねることで、強さをさらに増してきた。
 
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 60年代には、ディ・ステファノの晩年のチームメイトだったアマンシオ・アマロが背番号7の系譜をスタートさせた。これがファニート、エミリオ・ブトラゲーニョ、ラウール・ゴンサレス、クリスチアーノ・ロナウドに継承される。中心選手としてけん引し、9度のラ・リーガ優勝をもたらし、1965-66シーズンには欧州王者にも輝いている。

 マドリーの時代は脈々と受け継がれることになった。

 80年代には、アマンシオがカスティージャと呼ばれるマドリーのBチームを率い、「キンタ・デ・ブイトレ」と言われたブトラゲーニョたち優秀な若手を育て上げる。一方でトップチームを率いていたディ・ステファノが、その若手選手たちを次々に引き上げた。そしてリーガでは5連覇の偉業を達成することになるのだ。

 そして2001年、ジネディーヌ・ジダンがマドリーに入団。チャンピオンズ・リーグ決勝、歴史に残るスーパーボレーで再び欧州戴冠を決めた。そのジダンが監督に転身し、欧州3連覇を果たした快挙は記憶に新しい。

 ヘントは欧州5連覇を達成した主力だっただけでなく、60年代の欧州制覇のメンバーでもあった。マドリーは強いからこそ、マドリーになったと言える。最強の伝説を作る前は、「単なる首都のクラブ」に過ぎなかった。有力選手の輝きによって、歴史を変えたのだ。

 今は心から冥福を祈りたい。

文●小宮良之

【著者プロフィール】
こみや・よしゆき/1972年、横浜市生まれ。大学在学中にスペインのサラマンカ大に留学。2001年にバルセロナへ渡りジャーナリストに。選手のみならず、サッカーに全てを注ぐ男の生き様を数多く描写する。『選ばれし者への挑戦状 誇り高きフットボール奇論』、『FUTBOL TEATRO ラ・リーガ劇場』(いずれも東邦出版)など多数の書籍を出版。2018年3月に『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューを果たし、2020年12月には新作『氷上のフェニックス』が上梓された。




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